現代、僧は、涅槃に入ること・来世がないことが良いという外観を保つために善行してい…
jrf> 現代、僧は、涅槃に入ること・来世がないことが良いという外観を保つために善行していると極論してよいのではないか。 習ったことが新しい時代に通用しなくなることに執着せず(衆生的法帰依的なものよりも涅槃を優先する)、子供が言うことを聞かないことや作品が遺らないことに執着しない(衆生的自帰依的なものよりも涅槃を優先する)。涅槃に入るのが良いこととすることで、それらに執着しないことを促し、執着による苦をやわらげる。それが、転生概念がない場合でも、もたらされる仏教の救いではないか。 僧が「善行」をすることで、涅槃に入ろうとすることが善いことだとブランド化される。それはブランド化だから、僧と同じことができなくても、涅槃に入ることができる。涅槃に入る方法は、僧的な善行以外にもいろいろある。…としてはいけないのだろうか? 法華宗は法帰依、念仏宗は自帰依に寄ったデザインなのではないか? ↓において、「神の記憶モデル」が「法帰依」に、「霊的肉体モデル」が「自帰依」に相当すると、私は考えている。 《魂の座》 http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_10.html