(承前) ……。…
jrf> (承前) ……。 「神が優れたものであらせられるのだから、そうあるべきならそうしている。」…と書いた。しかし、現実は善悪がちゃんと報われるべきなのにそうなっていない。それと同じように虚の世界においても「そうあるべき」ということが、わかりやすく「そうなってる」とは限らない。「虚の世界のあり方も素朴な想像とはだいぶ違っている可能性はある」…と書いたとおりである。 キリスト教などが伝える(確証した)「虚の世界」は、すべての人間にとって真であるとしても、キリスト教徒にとって真である以上には、それ以外にとって真ではない可能性もあるのだ。 フラクタル次元と華厳経について考えたこと [cocolog:93701863] のようにある種の仏教的世界観との合同や、《神々のための黙示録》が意味があるかもしれない。 ただ、そういうこととは別に、現代は、映像などが未来に残るようになっており、それを残す基準など現実的な面で、「虚の世界」の論理が部分的に生きてくる可能性がある。従来もそういうことはないではなかったが。逆にそれが「虚の世界」の描き方に影響を与える可能性もある。 「虚の世界」もそうやって創られていっているのだ…とは言わないが、それも「虚の世界」の大きな秩序の一つの現れ・影響ではあるのかもしれない。 ……。 福田歓一『政治学史』を読んでいるのだが、キケロの論として次のように載っている。 >『国家論』によれば republica は単に人々が集合したというものではなく、consensus juris すなわち法・正義・権利についての合意によって、また利益の共同によって結ばれた結合である。<(p.71) 誰を救すべきか…神の善がいかなるものであるか…は、政治によって決まる。 >『法律論』のなかで彼は「人は正義のために生まれ、権利は人の意見によらず、自然に基づく」と 言っている。つまり、何が正義であるかは、conventional なものではない、それは自然に由来する、としており、ここにキケロのストア的な考え方が端的にうかがわれる。<(p.71) 「自然法」的なものは別にある。それを「宗教」の所掌とし「政治」と分業するのが自然に見えるが、必ずしもそうすべきというほどではないのだろう。特に複数の宗教が並び立つような場合は特にそうなのだろう。 >『国家論』の第1巻では、キケロはスキピオの口をかりてこう言わせている。「それに、あらゆる国家はその最高の権力者の性格や傾向によって違っているのだ。(…)」<(p.71) 分業された部分は特に国によって異ってよい。それが広い意味で何が最善かを探す分業になる。 ただし、近代における「自然法」的な人権の主張は、「未開の地」において介入する口実として使われたのではないか…と現代アメリカなどの「人道的介入」で戦争を起こしてきたのを見て思う。(これは、福田歓一の他の本を読んだ([cocolog:90689746])とき、考えたこと。) [cocolog:90689746] >実際には集団が保障していて、集団に属さない者には与えられないのだけど、たとえば、それは「基本的人権」なので海外に出ていった先でもその外国に関係なく守られるべき権利ということにもなる。大航海時代を経た権利という感じがする。<