[cocolog:93763227] つづき。 少し論を逆転させる。…
jrf> [cocolog:93763227] つづき。 少し論を逆転させる。 神は個の独立を好むと考えるのはなぜかというと、集団が同じ方向ばかりを向いていては危機に弱くなるから。それは↓の枠組でいうと、分業と保険の論理である。 《なぜ人を殺してはいけないのか》 http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html ↑によれば、分業と保険からは競争と過失責任が出てくる。いかにも現代が好みそうなテーマだ。分業・保険・信用で一つのセットになっていた。「信用」は出て来ないのだろうか? 「他者を救う」のにおいて、マイナスの方向、悪いことをした場合は罰を与えることになる。その際は「信用」の輪を使うことになるだろう。さらに罰から許しを与え「他者」を活かすのは、「保険」原理であったから、前のコメントの段階で上がっていた「分業」も合わせ、セットが揃うことになる。 これらは神が何を善となさるかという集団の合意のようなものに関わってくる。有神論の定理のように、自然に成り立っている動かせないものはあるとしても、それ以外に善は何を基準とするかについては、特に優先順位などは、動かせる。それを誰がどのように動かすか…となると政治の問題になってくる。 ……。 易理 [cocolog:92984837] などにおいて、「世を混沌と物理(もののことわり)に分ける。混沌から物理をたち上げるとき、要素還元主義的に物の理を追っていくことには限界が必ずあり、物のはじまりを擬制せねばならない。その擬制されたものを鬼と呼ぶ。鬼と物の理も含めたところに全体的な働きが現れることがある。その働きを神と呼ぶ。天意は神の一種と見えなくもない。人心は、神とも見えるがむしろ鬼のように私は思う。鬼・神は起・信なり。」…と述べた。 この神(シン)と、これまでの一神教的な神(カミ)はどう関係するのだろうか。 カミはシンの一種であるというだけでなく、神秘的体験によって、確証された人格的なものを持った者である。 私は統合失調症を経験しており、そのようなカミがあることを信じている。ただ、それは奇跡が時間をたてば確証を失うようにどんどん確証は失われる。未来に私の話を読むものはただのビョーキとかたづけるだろう。また、私が通じていたのも唯一神的なものではなく、ほとんどが単なる上位存在的なものであったということにはできる。しかし、私にそうやって神秘でアクセスしてきたのは究極的には唯一神的なカミであったろうと今でも思う。 キリスト教では過去の奇跡によって、そのカミはどのようなものか(ある程度)決まっている。しかし、非宗教的立場から、キリスト教は基本、伝聞によりその教義を伝えているとしか言えない。しかし、その伝聞が生きていること自体に奇跡性を見出せないわけではない。 では、神秘的体験によってシンをカミと認めるべきか。それは長い歴史を見る限り、多くの人にとっては、そうではない。神秘的体験を求めるべきでない。「正常」なまま人生を送り、終えるものが「善」とされねばならない。カミと認めたものが上位存在でしかなく、しかも悪でしかない可能性もある…としておこう。その「上位存在」が(神から)善とされるのも、集団の道ゆきの中で確証すべきことなのだろう。 つまり、多くの人にとっては、シンとカミは区別しようのないもの、カミはシンの一種でしかない…でよい。カミを特別に見せるのは政治と言ってよいだろう。広く宗教も政治と見る観方である。もちろん、主に分業のため、一般にいう「宗教」について、政教分離があったほうがよいとは私も思うが。