[承前]…
jrf> [承前] 「苦」との関係。「来世がないのが良い」というのは、天上・地獄も含めたこの世が苦であるというところから出てくるとも言える。 来世につながるようなものは苦…善も苦なのか? 人の執着をなくすような善は苦ではない。…と思う。 「自己の探求」とはすなわち「八正道」のことだとすれば、この苦の洞察とあわせて、「四諦」があらわれるといったところか。あとは「生きなければならない」を説明する必要があるが、それはこれまで少し書いてきた。 ……。 「自己の探求は良い」も命令的前提としてはいらないのではないか? 来世をなくそうと探求すれば、自己の探求が必要なことがわかる。…と。 これは公理ではなく、他の公理などから導かれる定理として示したいところだが、本当に誰しもが導くことができるだろうか? 「生きなければならない」の周辺的な環境的前提として、人は死ぬというのがあり、総体として生きなければならないから、新たに人が生まれることになる。死ぬ者がいる中、来世をなくすのを続けるためには、来世をなくすのに必要な自己の探求に資する資料を生き残る者に残したほうがよい。 しかし、その「自己の探求」は、「来世をなくす」のに資する場合に限られ(またはプラスして「生きなければならない」に資する場合に限られ)、残す資料もそのようなものに限られるのだろうか? いや、「自己の探求」は自由で、自由にしていながらも、やがて、「自己を探求」するものは「来世をなくす」涅槃に致ろうとするものだ。…というのが仏教の洞察なのではないか。自由にして別の結論が導かれるなら、仏教そのものが偽となるのではないか。 だから、どのような自己の探求も許し、それが「来世がないのが良い」と導けることが「来世をなくす」のに資するのであるから、自己の探求のために残す資料が、「来世をなくす」のに直接資する場合に限られるわけではないとなる。 つまるところ、「自己の探求は良い」「生きなければならない」のみを命令的前提としても、自己の探求をしていれば、すなわち「来世がないのが良い」が導かれるはず…というのが仏教の前提としてあるということではないか。 ところが、本当のところは、それはそれほど自明ではない。そこは「信」に頼るしかない。だから、「来世がないのが良い」を落とすのではなく、「自己の探求は良い」を命令的前提から落とした形(「来世がないのが良い」「生きなければならない」)が、最小形になるということだろうか? そして、「来世をなくそうとすれば、自己の探求が必要なことがわかる。」というのが定理的な環境的前提となる。…と。 ……。 いや、でも、それだけだと自由な自己の探求が行われないのではないか? いや、生きるためには自己の探求が自由に行われたほうがよいというのがあるのではないか? しかし、逆に自己の探求をすることで、生きるエネルギーが余分に必要となり、マイナスということも考えられる。 「自由」に自己を探求しても「来世をなくすのが良い」が導かれるのを示すために、仏教は、「自由に自己を探求する」のを暗に求めているのではないか? やはり、「来世がないのが良い」「生きなければならない」「自己の探求は良い」の三つが命令的前提であるとすべきではないか?