種別[gsm] 2020-09-25T14:33:51Z
セクショングローバル共有メモ
日時2020-09-25T14:33:51Z
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自己の探求のためには生きなければならないから、「生きなければならない」を命令的前提から落として良いのではないか?

自己の探求に資さない(来世をなくすためにもならない)生は生きるに値しないということはありえまい。そこからすれば、「生きなければならない」を命令的前提から落とすことはできない。

……。

今やってること自体が、「自己の探求」に含まれる。四諦にたどりついたときそのとき人は生きて自己の探求をしている。それは是認されるということではないか。

……。

四諦に少し戻ると、「来世がないのが良い」は「この世は苦である」から導かれる。そこには「苦がないほうが良い」が隠れている。「来世がないのが良い」の替わりに「苦がないほうが良い」を命令的前提として入れることを考えてみる。

性欲について、それを満たさないことによる苦と、それを満たすことで執着ができ来世ができてしまう苦は、並びたつことができないとして、どちらを取るべきか…というのが、命令的前提からはうまく出てこない。生きなければならないという面では、それを満たしたほうがいいということになり、これは仏教的結果ではない。自己の探求からはどちらが良いとも言えない。

性欲がそもそもあるのは、生きていることが原因で、来世がなくなればその原因がなくなるのだから、性欲もなくなるようなものだというのは詭弁であろう。今の性欲がなくなるわけではないからである。「生きなければならない」という制約の中、性欲を満たすことが優先されることもあろう。

結局、「来世がある苦のほうが大きい」という「定理」または環境的前提があり、「苦がないほうが良い」は「苦量が少ないほうが良い」と書き換えることが必要なのだろう。さらに言えば、今の苦と将来の苦の比較も必要になる。そこに割引現在価値の議論を持ち込むかどうかは別として、それはさらに「現在から(過去も?)将来にわたる苦量の和を最小にする」と書き換えることが必要なのだろう。

ただ、自己の探求の過程で、苦量の割り当てが変わりうることには注意しなければならない。仏教はこれにより「来世がある」という苦をなくす方向に人は導かれると洞察するのだろうが、それは自明ではない。

そう考えると、「苦がないほうが良い」よりも「来世がないほうが良い」を命令的前提とし、「苦がないほうが良い」は、「生きなければならない」と新たな環境的前提「苦がないほうが生きやすい」をあわせてそこから定理的に導くほうがよいのかもしれない。