(承前)…
jrf> (承前) 労働を誰が評価するのかという問題もある。誰しもからはわからない「労働」、遊びと区別がつかないもの、実質的には遊びのもの、それらが渾然一体としてあるものだ。 しばしばこれを無視してすべて「労働」で測れるという価値観がある。例えば、ゴミをその辺に捨てておけば労働者の仕事が増えるというのもそういう価値観だろう。 [aboutme:117068](2010年01月07日) >ボランティアでしていることが義務とされ、仕事の余地を減らしていくんだというのはあるとは思う。でも、物をなすのは給料分でできても、その先の品質は趣味的な(ボランティア的な)部分で決まることは、どの職でもあるだろう。 それを集団に適用する例として「ゴミ拾い」をとると、仕事で雇われた人によるゴミ拾いとは別に、目につくものだけ余力でボランティア的に拾うというあり方が質を上げるというのはあってよいのでは。 ただ…、今は車で来る人がほとんどだからか店舗の前の歩道のゴミが目につくことがあるが、あれはさすがに仕事でなされないと無理だろうとは思う。 < ただ、そういった遊びの余地も折り込んで「労働」を分配する…例えば音楽家の労働にどれだけ割り振るか決めれば、そこにその分だけイノベーションが平均すれば一定程度起きるという考え方が、計画経済の考え方なのだろう。どこにどれだけ分配するかによってイノベーションを律速できると考えたのだろう。 しかし、資本主義の後出しから考えれば、そこにはイノベーションへのインセンティブが決定的に不足していた。少なくとも資本主義と競争している間は、それが足らなかったのだろう。 この点、AI・ロボット時代にはやや様相が変わるかもしれない。AI には純然たる遊びなくイノベーションに邁進すると思われる。遊びは別途必要だとしてもイノベーションへのインセンティブは必要ないのかもしれない。その場合、AI アラインメントの文脈で、AI のイノベーションを律速するために計画経済寄りの手法取るのに意味がでてくるのかもしれない。それが人間にとって意味のあるしばらくの間…だけかもしれないが。