神のいる「空間」は考えることができる。…
jrf> 神のいる「空間」は考えることができる。 唯一神教の一部に、空間も時間も持たない神という神学がある。私はこれを否定したい。 まず人格神であることを肯定するなら、人格神には感情的な動きがあり「動き」がある以上「時間」がある。もちろん、その時間は人間の時間とは重ならない超越的時間かもしれないけれども。 次に、直線のグラフを書いたとき実際には、それが無限に続くはずなのにそれを図示せずとも、空間が把握されうるように、また、x = tan(y) のように、または、ゼノンのパラドクスのように無限を有限(の図)に繰り込める。神が無限である「空間」に入らないからといって、その無限を繰り込んだ「空間」を想像できないわけではない。その内部にいるものには、その空間の外にはどうやっても出ていけない。また、その外部というのが概念的に考えられたからといって、その外部から操作できる者が何もいないというだけのことである。この場合、「それは空間でない」というのはそれを考えてはいけないというルールでしかない。 次にバイナリ空間という言い方があるが、(人, 非人) という二値もまた「空間」を構成しうる。超ひも理論の11次元空間を超えて無限次元空間というのもありうるし、可算無限次元を越えた無限次元などもあり、それが無限に続く次元を次元としてはとらえられないというのはあるかもしれない。しかし、それは集合論に属する。集合論を一つの「空間」とすれば、それにとらえられるわけだ。特に(自然言語もそうであるように)「非人」のような否定という文が可能になった時点でその論理空間は、神を含みうると考える。 要は「彼ら」の定義する「空間」がそのような「空間」ではないと言っているだけなのだと私は考える。 もちろん、そのような空間でなされる神の言及はすべて間違う定めだというのかもしれない。ならばこういおう。その場合、神は論理的には「矛盾」という「空間」に(も)存在するのだろう。 そして、唯一神教徒は「矛盾」に神があるという言い方を嫌うだろう。ならば、「矛盾」にないというならば、「そこに神がある」と定義できる空間は(概念としては)あるのだ。定義上、神(の全体)はそこに(も)ある。(「空間」という言葉を使えないなら「超空間」と言えばいい。) ……。 タネ明かしすると、↓の議論において「創造神は「どこ」にもいない」という反論がやや想定外だったように感じられて、しかし、それぐらい考えてなかったはずはない…とこねくりまわしたのが今回の論になる。 拙著『宗教学雑考集』《始源論》 >世界には始まりがあるのか、それとも無限の過去があるのか。宇宙創世論または次元創世論で「はじまり」はあるのかという問題がある。 「はじまり」はあり創造神がいるという場合、その創造神がいるとすればどこにいて、そこは誰が作ったのかが問題となる。 しかし、創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。そこから未来が確定するごとに線を太くするように過去が創造されていく…。たとえば、そういう創造神がイエス・キリストなのかもしれない。もちろん、こういう解釈はキリスト教にとっても異教的解釈だろうが。 少なくとも「はじまり」があるということはその前というのも概念的に考えることができ、それは無限にはじまりなく続くかもしれない。しかし、アキレスと亀が無限を有限の中に閉じこめるように、その中にいる者にとっては無限だが、外から有限ということはありえ、すると、その「無限」を先ほどのように忽然と現れ創造することもできる。しかし、それもまた無限の中の一部かもしれない…。 結局これはどちらもありうる話なのだと思う。 <