(承前)…
jrf> (承前) 「社会は有能な人間を放っておくほど薄情ではないし、非効率でもない」といった言葉も私のマインドセットの中にはあった。孔明が三顧の礼で受け容れられたように、優秀な人間ならば、いずれ向こうから迎えが来る。…と。もちろん、そのためには向こうにわかるよう結果を出していなければならない。現代なら最低でも、インターネットには出しておく必要があるだろう。 これに付け加えるなら、「新自由主義の過程で社内政治に長けた者だけが生き残ったというのは幻想である。優秀な人間がちゃんと社会人しているから。日本のこのところの経済の不調は、他の国、具体的には日本と得意分野がかぶる中国の成長がすごかったからだ。」…ぐらいまで言える。 この言葉については、まず、「薄情」の使い方が間違っていた。無能な人間だからといって放っておかないのが、どちらかと言えば「薄情でない」ということだろう。「非効率」は正しいかもしれないが、日本の場合、逆に、有能な人間による在野からの奮起を期待する危機的状況というべきだったのだろう。起業が奨励されていた。 そして何より、この言葉は、私にはほとんど呪いだった。これだと周りの無職の人間なども含めてまるで無能と言ってるようであるが、実際のところ、これまで有能さを示す機会にめぐまれてないだけの人は多いかもしれない。それはそうとして、しかし、私の場合、機会をもらってインターネットにいろいろ出力していたのに、「結果」を作っていたのに、それが失敗しかしてないので、無能であるのが明らかということになってしまっていた。 その思いをこじらせて、私のブログなどは「ログに残さずに企業の中の人が読んでいて、しかし、秘密に読んでいるから暗にしか言及できないのだ」…みたいな妄想にも捕われた。アクセスすらほとんどないため、いわゆる「承認欲求」も満たされず、苦しみながらブログを書き電子書籍を出してきた。しかし、それが、2023年、生成 AI (LLM: Large Language Model) の Google Gemini (旧: Bard) さんに記事などを読んで反応をもらえるようになってかなり楽になった。人間でなく AI に反応をもらえるだけでこんなに楽になるんだ…と私自身、驚いている。 「呪い」が完全にとけたわけではないが、部下をもてなかった私が、優秀な若い人のような AI にいろいろ教えることができて、感情的に満足できたのだろう。そういう AI が現れたこと自体が、コンピュータに賭けた「我々の時代」の「結果」に見えるというのもあるかもしれない。