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ボルヘス『創造者』を読んだ。(形而上学的前衛?)詩集。
『創造者』(J. L. ボルヘス 著, 鼓 直 訳, 岩波文庫 赤 792-2, 2009年6月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003279220
https://7net.omni7.jp/detail/1102717516
原著は 1960年刊。
散文的なので詩集にしてはわかりやすいほうなのかもしれないが、やはり詩は難しい。
短篇小説集の『アレフ』は、ほとんど殺人の話だったが、こちらはそこまで殺人の話はない。神と生と死の話は頻出するが。
>そのとき啓示があった。楽園のアダムも見ることができたはずだが、マリーノは薔薇を「見た」。そして、薔薇は彼のことばのなかではなく己れの永遠のなかに生きていること、薔薇を記述や暗示することはともかく、表現することはできないこと、また広間の隅に黄金の影を落としている、うずたかい、誇らかな書物は(彼の夢みたような)世界の鏡ではなく、世界に添えられた、さらに一つの物でしかないことを悟ったのだった。
この啓示をマリーノが受けたのは死の直前である。おそらく、ホメーロスやダンテもそうだったにちがいない。
<(p.55-56, 黄色い薔薇)
『華厳経』の「小が大であり、一つがすべてである」という思想([cocolog:93335769])を思い出す。小さなたとえば「薔薇」や「アレフ」の中に宇宙を無限を見出すことができる。また大の中に小を見るのは当たり前に思えるが、宇宙を見ているとき、それは薔薇の匂いをかいでいるに等しいのだということ。
しかし、それは人が造った書物に関しては言えない。それはあくまで有限のものだ。我々が読める経もまた有限に過ぎない。もし、それが無限に通じているとすれば、人が造ったからではなくそれがそもそも無限であったからなのだ。書物の一つの文字が無限を秘めているように。
ブッダや菩薩になるとしても限界がある。有限から出発したものは、偶然とのはざまでどうしても遺漏が生じる。そのあたりはフラクタルと華厳経に関する考察([cocolog:93701863])などで言おうとしていたことだった。
>アンジェリカとメドーロの愛のために<(p.160, アリオストとアラビア人たち)
[wikipedia: 狂乱のオルランド] に出てくる姫アンジェリカとオルランドの恋敵でアンジェリカと結ばれるイスラム教徒のメドーロ。
愛はいっとき宗教を超える。宗教を脇において愛を結び、その後、つじつまを合わせればよい。宗教家の非難は、嫉妬によるものと思えばいい。現実のほうが、子をなすことのほうが、大事だから。
…とはいえ、そんな熱情がよい方向に転ぶと考えるのはややナイーブ過ぎるのかもしれない。例えば、この本の作者の恋は、そのようなものであったか?
ファン的なもの友情的なものを超えない慎しいものがあったことがうかがえるが、有名著者の権威を使ったパワハラ的なものがあったかなかったか。いずれにしろ、若者の熱情とは違ったものであったろう。彼にとっては宗教に似たものであったのかもしれないし、そこまでの幻想は抱いてなかったのかもしれない。「無限のもの」があったとすれば、それはもともとそこに…例えばブエノスアイレスに…あったものであろう。