読書。 ボルヘス『アレフ』を読んだ。 『アレフ』(J. L. ボルヘス 著,…
jrf> 読書。 ボルヘス『アレフ』を読んだ。 『アレフ』(J. L. ボルヘス 著, 鼓 直 訳, 岩波文庫 赤 792-8, 2017年2月) https://www.amazon.co.jp/dp/400327928X https://7net.omni7.jp/detail/1106742770 原著は 1949年初版, 1952年 第2版。 >私が述べてきた二つの物語は、おそらくただ一つの物語なのだろう。この銅貨の表と裏は、神にとっては同一のものなのだ。<(p.70) 最後の審判を前提とすれば、神は、この世で帳尻を合わそうとするはずである。一方で悪があるならば、それを補う善があるはずだ。 そこから、悪をなすことで善をなせる者が現れ、逆に、善をなそうとする者がいれば、それは悪をなす者を裏で生むので、悪をなそうとするのと同じことだ…といった解釈も出てくる。 しかし、善と悪は同時である必要はない。同じ人間である必要もないとすれば、カンブリア紀の進化の大爆発が、今の人間に善や悪を生んでいてもいいわけである。それは進化によって生じていた人間の偏りが悪のようなものを生んでいるという観方につながり、それは別に普通のことだ。([cocolog:93225056] >自らの中には、進化を経て得てきた「悪しきもの」もあるはずである。ただ、それはある時代には必要だったもので、その意味では善で清いものだ。<) 神を介在させるとしても、二人の人間をコインの表と裏のように見るのではなく、複数のまたは全体を見て因果応報をなすとも考えられる。 神義論を語る [cocolog:93763227] に>人がなすのはすべて偽善で、ただ神がそれを見て善しとされる<と書いたが、そこではまた、次のように書いた。 >神はある意味、現実在については、全体しか見ていない。すべての個も見ているが、個は偶然にしかかえりみようとなさらない。個々の帳尻はきっと「死後の世界」も含めた虚の世界において達成されるのであろう。そして、その虚の世界の出来事の話は、現実在にちゃんと影響する。ただ、どこまでが現か虚か、個か全かはこれもはかりがたいものとなるのだろう。< ボルヘスの小説に戻れば、悪や善をなすのは、生や死で分かたれなくても、偽物でも、劇のようなものでもかまわない…という「進展」があるのではないか。 劇のようなものとすれば、では、それを描く作者は何者ということになるだろう? 彼もまた神なのだろうか? それはボルヘスにおいては抑圧される思考なのだろう。抑圧され、神のごとき視点「アレフ」が残されるのだろう。 「アレフ」の物語で私は、911で狂う前の私を思い出した。私は電車に揺られながら、長い思考ができなくなり、ただ「X」という文字を思い浮かべて、そこから動けなくなるようなことがしばしばあった。あれは「エックス」ではなく「アレフ」だったのかもしれない。…と今になって空想する。なんと呼ぶかは別として、世界を表す文字に捉われ、この小説のダネーリのように才能が制限されてしまった。(実際は頭の動きが制限されてそうなったのであるが。) それはある意味、今も続いているのかもしれない…。