[仏教の最適化プログラムの続き。] 易の本を続けて読んでいる。 金谷…
jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。] 易の本を続けて読んでいる。 金谷 治『易の話』(講談社学術文庫 1616, 2003年) を読んだ。 一点だけ、かなり長めの引用になるが、私のここで見せるような宗教に対する態度が「東洋的合理主義」である…にすぎない…ことが示されており、大事なので、それを抜き書きする。 > 孔子の合理主義 有名な孔子(前552 -- 前479)のことばに、「鬼神を敬してこれを遠ざく、知というべし」というのがある(『論語』雍也篇)。このことばほど、孔子の合理主義の性格をはっきり示すものはない。鬼神を遠ざけるというのは、神秘的な存在に懐疑的で、それを正面きって問題にするのをさけることである。それは孔子が鬼神へのお仕えよりは人へのお仕えがたいせつであり、死後の問題よりは生の問題がたいせつだと述べたり、また「怪異や力わざや背徳や神秘は口にしなかった」といわれていることなどと同じで、まぎれもなくはっきりした合理主義の立場を示している。しかし、ここでまた「鬼神を敬して」といわれていることが問題で、敬するというからには、鬼神の存在を認めてそれをはばかる心情があったとみるべきである。おそらくそれは、孔子にとって、理性の問題であるよりは心情の問題であったろう。が、いずれにしても、孔子の合理主義は現実をこえた世界までもまっすぐのびていく性質のものではなかった。 この、あいまいな疑わしいものをそっとしておくという態度、それを究明してはっきりさせようとするよりはただ冷淡に対処することが理性的だとする態度は、不可知の世界を不可知としてはっきり残すことである。「知るを知るとし、知らざるを知らざるとする」(『論語』為政篇) というのは、そのことである。孔子にとっての「天」の存在は、まさにこうした不可知の世界の中心をなすものであった。そして、それは高い倫理性を根柢から支持するものともなったが、反面ではまた低俗な呪術的迷信を儒教のなかにすべり込ませる契機ともなった。つまり、儒教は神秘や不合理に対する警戒を一方では強度に持ちながら、それらをきびしく拒否するよりは、むしろある程度まで社会通念に従っていく寛容さを持っていたのである。 朱子の受け取り方 宋の朱子は、孔子から千六百年もあとの合理主義者で無神論者であったが。この点についてはほとんど同じことであった。彼は、蜥蜴[とかげ]が山の上から雹[あられ]を降らすという俗信について質問された時、ほぼ次のように答えている。「自分の親友の某[なにがし]はめったにうそをつかない信用できる男だ。この男が山の上でたくさんの蜥蜴があわをふているのを見かけたが、山から里に下りてきてたずねると、ちょうどそのころに雹が降ったという。この話を信用すると、おそらく蜥蜴が降らすということもあるのだろう」(『朱子語類』巻二)。 朱子の理性は、もちろん、そうした俗信を信ずることを許さない。彼には独自の合理的な自然哲学があったからである。しかし、それにもかかわらず、彼はその迷信を拒否することなく、信用できる友人の証言だからというだけで、消極的にではあるが、それを容認したのである。合理主義としては不徹底で限界がある、というべきであろうか。それは要するに、科学的合理主義とは違う異質の合理主義であった。 『易』が儒教の経典となったのは、もちろんそこに合理的な検証に耐えるだけの思想性があったからである。しかし、『易』のうらない -- 神秘的な呪術にかかわる技術までも、まるがかえにしたのは、先にみたような儒教思想の茫漠とした寛容性のためであった。だから、中国に知識人たちは、『易』を読んでも、ふつううは占筮だけを積極的に強調したりはしない。漢の厳君平は隠者として有名であるが、生活の資として売卜をした時も、ただ未来をいい当てるというだけでなく、それにつれて道徳的な訓言を与えたという(『漢書』王貢両襲伝)。そういううらない方が知識人の理想であった。朱子は、『易』について占筮の書としての性格を強調した人であるが、「後世の儒者が卜筮の説を卑[いや]しんで語るにたらず」とするのもよくないことだが、また「見識のない卑俗な者がそれに深入りして執着する」のもよくないと警戒し、「だから易はむずかしい書物だ」といっている(『朱子語類』巻六十六)。一般には、ここでいわれるように、儒者の合理主義は占筮を卑しめていたのである。しかも、その合理主義はまだ占筮を否定することもしない、いや経典の一部として否定しようもないもの、他の雑占に比べて格段にすぐれたうらないとして容認したのである。 >(p.103-107)