[仏教の最適化プログラムの続き。] 田上太秀『仏典のことば…
jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。] 田上太秀『仏典のことば さとりへの十二講』([cocolog:93013747])からもう一点。 諸法無我について。 >simbd (…)を作ったとき self をプログラムで使ってはいるが、それは我と呼べるような AI ですらない。我がなくても世界の実相はつかめる…我の必要なく世界・諸法をつかめ…世界に我の必要なくせしめよ…とは言えるのかもしれない。…とは思うが、「諸法無我」はそういう意味なのだろうか? 「諸法無我」がそういう意味なら、私もある程度は納得ができるが…。< 最初のころ「信頼度付きで論理式をいじる」など論理体系を作る話をしていたが、法律の事実認定の論理などを作るのもとても難しいことで、そこには私はどう考えてるか…私から見てどうか…みたいなことが必要になると思う。 しかし、「私から見てどうか」は別として世界はあるのだから、その世界を論じることができ、simbd のように「私から見てどうか」は、ambition や education といったパラメータに落ちる。そうなれば「私から見てどうか」はいらなくなる。 確率を議論するときも、↓のような問題で、観測者が「自分」であるかどうかで物事が変わる気がするが、しかし、「自分」というのを結局出てこなくても様々な観方の結論は出せる。 《眠り姫問題のプログラム》 http://jrf.cocolog-nifty.com/software/2017/02/post-1.html 《モンティ・ホール問題または三囚人問題の拡張とその確率操作シミュレーション [ JRF のソフトウェア Tips ]》 http://jrf.cocolog-nifty.com/software/2016/08/post.html 「自分」であることは何かとても大事なことのように思うが、問題を解いてみると、案外「自分」はいらない。 それが「諸法(において)無我」ということになるのだろうか? 結局、シミュレーションプログラムに落とせた。それがこのプロジェクトにおける「諸法無我」の現れ…となるのだろうか? ……。 四法印のうち、諸法無我は上の通り、涅槃寂静が「来世がないほうが良い」…として、一切皆苦が逆に苦の中を生きるべきだということで「生きなければならない」に、すると残りの「諸行無常」が「思考と思念を深めるのがよい」に相当するのだろうか。むしろ、一実相印…諸法実相の空観のほうが「思考と思念を深めるのがよい」となり、「諸行無常」は田上太秀『仏典のことば』のメモで述べたように、この「諦観」も「来世がないほうが良い」に含まれるということだろうか。 《法印 - Wikipedia》 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8D%B0 まぁ、無理矢理あてはめすぎか…。