種別[gsm] 2021-08-14T06:54:05Z
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日時2021-08-14T06:54:05Z
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[仏教の最適化プログラムの続き。]…

jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。]

カルマ…業というものは、本来は、因果応報で、良いことでも悪いことでも何かやれば、それに対してふさわしい報いが、死後かもしれないが、やってくるという考え方である。…と思う。

罪を犯し、それにふさわしい報いを例えば兎の姿となってある程度受けたとしても、まったく同じ量の報いというわけではなく、別の生となったときの他の場面でも、報いがあったはずの業が、やはり報いとなって現れることもあるのだと思う。それは、「ある程度」の受け方から新たに生じた業も含まれているのかもしれないし、そもそもの業が生まれるにも業があって、それが効いてるのかもしれないが。

このシステムにおけるカルマはそういうのと違うが、少し似ている。カルマの自然減少がああいう式なのは、軽い罪の場合は、それを犯したのが時間がある程度たてば偶然であったことと見分けがつかないとなるからで、重い罪の場合は、長い時間スパンにおいてもなかなか偶然となし得ないことを表しているのではないか。

業は偶然と見分けがつかなくなって消えうる…。このカルマと偶然の関係をどう考えるか。

仏教的業がどこまでも付いてまわるというのは、「偶然」を認めず、すべて「必然」とある意味考えるからそうなるのではないか。業が善にも悪にも報いうるのは、「必然」の高度な対称性があるからで、その対称性がときに「偶然」があるように装っている。…と? 光と闇が必然的な対称としてあるとしても、右に行く光と左に行く光も対称性がある。そういったものが複雑に絡み合うと「偶然」ができるということなのか。複雑に絡み合いうるというところに「偶然」があるのか。それとも複雑に絡み合うのを観測したものにある「偶然」は真実であるのか。それどころか「偶然」がそもそも本質を持つのか?

偶然が本質なら、因果応報の「必然」をそれほど追わず、カルマを「偶然」のついえる今生で終わらせても問題ないのではないか?

私の中でもうまくまとまってないが。