[仏教の最適化プログラムの続き。]…
jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。] 仕事を、自分(の集団)への害の確率・他人の集団への害の確率で表せるとすると「生産」はどうなるのか? 別にパラメータを作るべきなのか? 自分への害の中に生産への害が含まれる。逆にいうと自分への害が発生してない段階では生産が滞らない。「自分への害」というものがすなわち「生産への害」ということではないのか? 「生産への害」が大きければ財産にも及び、生命にも及ぶことがある…と。生産は集団のパラメータで十分ではないか。 他人への害は生命への害になりやすいということではないか? 他人の財産または支配権をめぐって生命への害を起こす。 生命への害に、財産は防壁になるか? 財産を適切に使っていれば、防御にも財産を使うはずだから、思念をかけていれば財産が多くても狙われることは少ない…となるか。 いや、むしろ警察力の問題だから…組織の上のほうの財産・思念の使い方の問題になる? 生産に失敗すると(余裕がないと)夜盗が増える。しかし、生産能力を削っても十分防御に金(生産物)を回さないとやはり夜盗が増える。…というのを表現すべきだ。 防御というパラメータなりコマンドなりを考える必要があるか。考えるとして、それと思念との関係はどうすべきか? 思念エネルギーをかけていれば、防御が効果的になる…というのと、思念が届いていれば攻撃をしにくくなる…というのはありそうだ。ただ、後者は仏教的思念だが、前者はあまりそうではない感じ。 財産のない個人が防御の足りない個人を狙うというのはありそうなことだ。しかし、財産のない集団が、そう簡単に戦争を起こそうとするだろうか? 小さな集団が防御がされているから、というよりも、大きな集団の防御=警察力で、守られている…という感じか。にもかかわらず、個人が狙われるというのは、警察力が及びにくいからか? 小さな集団は大きな集団によって武装解除ぎみにされている。… 戦争はめったに起きない。…としても、生産が足りなくなって隣国を襲うというシナリオと、生産が足りない国を弱くなったと見て襲うシナリオのどちらがありうるんだろうか? それとも生産は関係ないのか?