[仏教の最適化プログラムの続き。]…
jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。] 信頼度付きで論理式をいじるのは、口で言うのは簡単だが、めちゃめちゃ難しそう。私は論理システムは使う側で、作るほうはまともにはやったことがない。しかも、自然言語のように主語・動詞があるような論理は何度か考えたができる見込みさえたたないし、それを無矛盾なシステムにしようとするのは無謀なことのように思う。 先に最適化のほうを詰めて行くべきか。 ……。 信頼度付き論理をいちおう少し追ってみる。 kernel に信頼度付きの論理式の集合があって、ある信頼度以上の論理式を集め、そこから、一般的な論理システムを使って定理を導き、それをその信頼度の論理式として集合に含める。そして、kernel からいくつかの論理式を忘却する。信頼度の低い段階では矛盾があってもよい。 矛盾を導き出すと、信頼度の低いものを教えた者の信用度が下がり、今後、信用度の低い者に教えられた論理式の信頼度は低くなる。逆に、信頼度の低い論理式が、信頼度の高い論理式の集合から導かれたとき、論理式の信頼度は高く更新され、信頼度の低い論理式を教えた者の信用度が少し上がる。…といった感じか。 論理式は少し違ったものが無数に存在しうるものだ。「A の恨みを下げる」が一つ導かれれば、その周辺に下げるための論理式が無数にできうる。また、逆に「A の恨みを上げる」という式も存在していて、両者を総合して微妙な上げ下げができることが望ましい。そんなことは可能なのか? 同じ信頼度で悔いが大きいと小さいが出てくれば、それは矛盾するということになる。しかし、ある人にとっては大きく見え、別の人にとっては小さく見え、その両者を総合するという形なら矛盾はないかもしれない。主張の人数を数えるか? でも、ある人の主張は別の人の主張のコピーということがありうる。根拠となる事実が同じか違うか…というのがありそう。根拠となる事実が共有されているのに、悔いの評価が違うときは、信用度の高い者の判断をとる…ということはあるだろう。 そもそも「事実」とは何か? ある場所や時点の特定…だけではなく、ある事実が続いていたかどうかが問題となって、継続自体が「事実」とされる場合もある。そうすると、場所の広がりも事実の構成には意味があるかもしれない。抽象的な真実、具象的なものと抽象的なものがまじった事実などは扱うべきなのか。… …とまぁ、このように、信頼度付き論理は、かなり複雑なことが予想される。 そういう論理システムをまず作るというか、どこかで発明されていることが必要。発明されていたとして、それを私が知って理解して使えなければならない…というところにもまた壁がある。 最適化がかなり簡単化したものでよいように、もしかすると、もっと簡単な特殊な論理だけで最適化に対応させることができるかもしれない。ただ、それは最適化のほうを作ってからでないとわからないような気がする。