種別[gsm] 2020-10-15T17:30:05Z
セクショングローバル共有メモ
日時2020-10-15T17:30:05Z
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[仏教の最適化プログラムの続き。]…

jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。]

僧は施設のかわりに教えを「悔い」として作るという話のつづき。

真実は…、僧は集団として集団の恨みを減じる。そのため、個人の [恨み] - [悔い] を実行するときに、集団の結果から [恨み] のほうが減じたと計算できることが認められるため、[悔い]が小さくても問題がなくなる。…という話だが…。

一方で、「自分の集団」が自分に続く未来の者の集団でそこがずっと確実に害(損)を引き受けるから、そう自分の集団に教えるのが大きな「悔い」になる。…という理屈にも一片の真理があると思う。

なぜなら、恨みの消え方は個人でいろいろタイプがあり、集団の恨みを減じた「真実」を語られても納得せずまたは理解せず、特定の僧の功績で害を引き受けた「一片の真理」を語られて納得して、個人の恨みを減らすという過程がありうるからである。

つまり、「一片の真理」はある種の「方便」ということになる。

しかし、その方便はモデルにおいてどう作用するか。それは、集団の思念を探求することで、集団の恨みを減らし、それがたまたまある特定の個人の恨みを減らしていた。…という形にせざるを得ないのではないか。つまり、方便がどういう内容をしているか。ということはモデルにおいては意味がなくなるのではないか。

そもそも、どうして最適化のモデルをプログラムするかというと、論理学において論理の健全性を示すために論理のモデルを作るというのと同じで、仏教の真理と私の考えるすべてのものがモデルの中の社会のような簡単な枠組でも確かに成り立つことを示すことで、その仏教の真理の群は一貫性があり無矛盾となりうる基盤を持っていることを示すためである。

で、「方便」の内容は、モデルにおいては意味をなさないとなりそうだが、思念の探求が集団の恨みを減じるというモデル内の動きが、実際にありうる論理(方便)でなされる証拠をモデルの外で(メタに)示す説明として意味はある。…となるのかもしれない。

当初は、kernel に論理式の集合を考えていたが、この段階になると、kernel は論理式の集合とは想像し辛くなっていることを認めねばならないようだ。

もし、あくまで kernel を論理式の集合にするのにこだわって、モデル内に方便の内容を押し戻すことを考えるなら、どういうふうにすることが考えられるか? 方便の内容は、まず僧の思考の探求によって、論理式として得られるということになるだろう。そして、僧が論理式を信者に教えて信者が思念とした段階で、恨みが減じる…となろう。僧は思考を探求する際、信者が理解しえないという(ある種の)真実を知り、それを別の方法で説得するため、個人の悔いを大きく見せる方法として、バーチャルな真実としての僧団の永続を仮定するだろう。僧は、詐欺に陥らないため、バーチャルな真理体系でも真理とならないような命題は「一片の真理」としても教えない…という思念を持つだろう。

…私が今(抽象的に)考えらるのはそこまでである。