[仏教の最適化プログラムの続き。]…
jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。] 「平等」は、カーストなどの身分制度が転生概念とともにあると、上の身分になろう、下の身分にならないようにしようとこだわる執着を生み、その執着がいけないから望まれるようなことを以前書いた。 上位者による自分の集団への害が、下位者たる自分の責任なく及んだとき(下位者の自分の集団への害と重ならないとき?)、来世に上位者になることをより望むことになる。それは具体的には、上位者の来世が悪くなるを喜ぶこと、つまり、上位者への協力が少なくなり、つまり、上位者の自分や他者の集団を害する確率が上がる。…とすれば良いのだろうか。 しかし、下位者は、そんなに自分にも不利益になることをするだろうか、むしろ来世に上位者になるチャンスがありうると思っているなら上位者に協力する社会のほうがいいと判断することもありうるのではないか。 むしろ、上位者になるために単に善行に執着するから、それが良くないということではないか。他者の最適化スコアを上げるために、恨まれてないのに悔いる。その自分への害が無視できないほど大きいということにすればよいのではないか。 (他者からの)[恨み] - (自分の)[悔い] = 0 になるのが涅槃の条件か。それがプラスでもマイナスでもいけない…と。いや、しかし、その式では執着について何も言わないのが気にかかる。執着が業となってさらに害を受む確率を上げる…となれば、それはその式に現れうるものとなるかもしれない。恨みや悔いをもう少し広いものと考えれば。…しかし、そもそも「執着」ってなんだ? どう表現すればいいんだ。 しかも、とても恨まれている者が大きな悔いをする…というのは、悔いのための施設を運営したりすることだろうか。それは、僧侶が涅槃に致るイメージと一致しない。僧は権力を持たないとすれば害を及ぼす集団の大きさを小さくするような何かが必要ということか? ……。 世界全体の最適化スコアというものも存在しえようが、世界全体を最適化するということはあるまい。スコアを集計すればこうだというものがあるだけだろう。 ただ、全世界スコアの各要素に関する重みというのはありうる。全世界スコアをよくする方向への行動を、天意に吉[かな]う…と呼び、悪くする方向への行動を、天意に凶[もと]る…と呼んでよさそうだ。 気象が変わるなどして、全世界スコアの各要素に関する重みが変化することがある。このとき、その変化に合わせて動くのも結局はスコアをよくする行動なので、天意に吉うといって良さそうだ。変化に叛いて動くのは天意に凶る。 易理の「亨[とお]る」は、局所短時間ではスコアを良くしているということだろうか。 ……。 「執着」は思念の固着ではないか? 眼で見るとき色がそう見えるのは思念の一種だが、それはしかたがないことだ。なぜ、そう見えるかを探求すべきだが、その思念があることは否定できない。美しいものをそう感じるのも思念でしかたのないことだ。なぜ美しいと感じるか探求し(場合によっては「結果」を残し)、より根元的な思念を識るべきだとしても。そういったものと違う、思念の固着が、執着ではないか。 全世界スコアが変化したり、そこまで大がかりでなくても、周りの状況が変化するときに、思念を最適な方向に変えられないのが、執着ではないか。 それは思念の探求の不充分としてパラメータ化すれば良いのではないか? そして、思念の探求のパラメータが不充分なとき、業(害の確率)が大きくなりすぎたり、悔いが大きくなりすぎたりしているのに気付かず、解消されない。…としてはどうか。 思念の探求をするには、「瞑想」コマンドを使う。執着は「暝想」により消えると言える。…そんなんでいいのだろうか? ……。 「悔い」は施設を作れば大きくできるという方向。「施設」は立派な教えのようなものでもよいということになれば、僧侶にもチャンスはあるか。しかし、その場合、「悔い」だから「自分の集団を害する」と言っても、まず、「自分の集団」が自分に続く未来の者の集団ということになるだろうし、「害する」は、限定された不利益を確実に受け容れることでしかないだろう。そんなんでいいのだろうか?