[仏教の最適化プログラムの続き。]…
jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。] 「来世なんてない」と一般に信じられていたとしても、自分が改善しようのない差別的待遇にあるとき、来世または前世を信じるしかなくなる。そのとき来世に望みをかけるよりも前世に業があったとして「来世がないのが良い」と考えることに意味が出てくる。 前世に業があるとしたほうが、革命などで業を生むよりよく、転生があるとしたほうがマシだとするところに転生という概念が復活する余地がある。 ただ、反革命的で、現状追認的なのが、本当に社会にとっていいことなのかはわからない。転生があるとしたほうが生きやすいのか、それとも革命などをしたほうが集団として生きやすくなると考えるべきなのか、難しいところ。 ……。 (来世なんてないと考えないならば)業があれば来世ができる。執着だけで業になる。…というのが環境的前提としてある。 「来世がなければ良い」は「業がなければ良い」と替えられるか? 善いことをするのも来世をうむことがある。善を業とも言えなくもないが、まぎらわしく「来世がなければ良い」を残すほうがわかりやすいのではないか。