[仏教の最適化プログラムの続き。]…
jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。] 「来世がないほうが良い」という以上に、実は「来世なんてない」という洞察が仏教の根底にはあるのではないか。 しかし「来世なんてない」というと、普通の人は悪の道に走る可能性が心配される。そのような心配をしなくてよくなる条件は何かというのが、仏教の裏のテーマなのではないか。 「来世がなくても良い」…個人が来世がなくても大丈夫となるあり方の道程に、「来世なんてない」があっても社会を成り立たせるのに導く方策が隠れているのではないか。それはより具体的には「生きなければならない」と「自己の探求が良い」を命令的前提とするのがその方策ではないか。 悪の道に走る…というと、輪廻がないため悪いことをしても罰を受けず、善いことをしても褒美がないため、善の意味が見失われる。…という心配がある。 もう一つ、見落されがちだと思うが、来世に子供をつくることを含めればわかりやすいが、子供を持ってもそれは自分とは関係ない。子供に意味がない。…から翻って、自分が生きることに意味がない。…となる、生きる意味が見失われるという心配もありうる。 まず、自己を探求するためには、生きていることが必要である。そして自己の探求を続けていれば、いずれ自己肯定の必要が出てきて生きる意味が見つかる。「自己の探求が良い」から生きる意味が見つかった。 次に、これまで書いてきたように、生きるとは個人が生きるだけでなく、子供を生み種として残っていくことが含まれる。業が霊的に直接来世につながらないとしても、業は他者の恨みとなって子供世代の生を脅やかすかもしれない。種として「生きなければならない」を実行するには、業がないこと、善の必要性、善の意味が導かれた。 「来世ないんてない」という心理状態を、「生きなければならない」と「自己の探求が良い」の二者が自転車の両輪となって支える。どちらか一方がかけると、うまく進まなくなることがある。…ということではないか。 「来世がないほうが良い」には、社会的に来世が信じられなくても良い社会になるべきという理想も含まれていおり、来世を信じなくても荒れない今の社会は、仏教の理想とするところに近いのではないか。 最適化プログラムの議論に引き戻すと、「来世がないほうが良い」は単に来世が信じられている状況で、個人に来世がなくなる…だけでなく、社会で来世がないと信じられている場合でも、問題なくプログラムが動かないといけないということではないか。