「生きたい」は仏教でも否定されてない。…と書いた。…
jrf> 「生きたい」は仏教でも否定されてない。…と書いた。 しかし、四苦・生老病死によれば、生は苦であり、やはり滅すべきものではないか? 一旦、いや、死で託された生は苦だろう…とかいろいろ考えたが、考えを変えた。 生は苦であっても、人は生を選ぶ。その「選ぼうとする」のが私が「生きたい」として示したことだ。…と。 考えてみれば、生も老も病も死もそうなりたいと願わないのにそこに向かう。そこに向かうというものが私が「生きたい」で示したかったものではないか? それは十二縁起とかアーラヤ識とかで説明できるのだろうか? さもなくば、それが「我」? しかし、そうすると、諸法無我の教えとあわない。とすると、それは「我」だと考えてはいけないのかもしれない。(もしかすると「我」ではなく「我々」なのかもしれないがそうとも限るまい。)