ニーチェ『権力への意志』を読むのを中断して…、 石原慎太郎『新解釈 現代語訳…
jrf> ニーチェ『権力への意志』を読むのを中断して…、 石原慎太郎『新解釈 現代語訳 法華経』を読んだ。 前に、大角修 訳と植木 雅俊 訳の法華経を読んで、とくに読む予定はなかったのだが、たまたま機会があったので読んだのであった。 いきなり序品第一(p.27)で、白毫から光を出したのが文殊菩薩と読めるところがあり、「おや?」と思った。法華経の細かい部分をかなり忘れていたので、これまでのはサンスクリット語訳で、これは漢文訳だろうから、そう読めたりもするのかな…とか思ったが、その後を読んでみると、サンスクリット語訳とそう大きな差があるわけではないようだった。 石原慎太郎が書いたということで、独自の挿話があったり小説風の物語になっっていたりするのかな…とか思ったら、そういうことはまったくなく、普通の法華経だった。 差別語もあるのはよいとして、仏教用語も辞書を引けとばかりに註がないのが良いか悪いかわからない。陀羅尼の途中省略はないようだが、普賢菩薩勧発品第二十八の陀羅尼はまるごと省略されていたりする。それらをかんがみると、聖典として読むにも、入門として読むにも適さない感じだった。 ……。 で、それとは関係ないが、法華経は、法華経はすばらしいと説くがその内容がいまいち不明だというのが大角修の見解だった。 また、法華経を読めば、眼耳鼻がものすごく良くなったり、多宝仏のストゥーパが現れたりするはずなのに、特にそういうことはない。 …ということを考えあわせると、実は、我々が読む法華経は「本物」ではないのではないか…とか妄想した。法華経の「真伝」は別にある。…と。 または、秘密の教えであるのは、実はその内容がまだ決まってなかったからで、内容が決まるまで、修飾の物語だけ作って捨て置かれていたのが、誰かが見つけて「内容」を作ったのではないか。…とか妄想した。 まぁ、ただの妄想で、それ以上の意味はないけど。