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(承前) ## 1. 「人はなぜ人を殺してはいけないのか」 ###…

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## 1. 「人はなぜ人を殺してはいけないのか」

### 伝統的な答え、駆け足で

一番古い答えは「神が禁じたから」だが、これには「神が禁じたから悪いのか、悪いから神が禁じたのか」という古典的な弱点がある(エウテュプロンの問題)。前者なら道徳は神の気まぐれ次第になり、後者なら神は答えの本体ではなくなる。

もう少し実務的な答えは「社会が壊れるから」というものだ。分業(みんなが武器を持って警戒し続けたら、他の仕事ができなくなる)、信用(自分が殺さないと示すことで、報復の連鎖に巻き込まれずに済む)、相互保険(自分ではない誰かがどこかで生きていることが、巡り巡って自分の助けになる)。これは実際、強い抑止力として機能してきた。ただし弱点もある。「バレなければよい」という抜け穴を理論上ふさげないこと、そして皮肉なことに、この同じ論理(分業・信用・保険)が、規模が大きくなると戦争・死刑・粛清のような組織的な殺人を正当化する論理にも横滑りしていくことだ。個人の殺人を止める論理と、集団的な殺人を許す論理は、根を同じくしている。

カントの答えは違う角度から来る。人を殺すことは、その人を「単なる手段」として扱うことであり、理性的存在としての尊厳を踏みにじる。この答えは「その人固有の何か」を守ろうとしている点で強いが、抽象的すぎて、理性の発達が不十分な存在や動物の扱いをめぐる線引きが難しくなる。

もう一つ、哲学者ドン・マーキスが提示した「将来剥奪説」がある。殺すことが悪いのは、その人が持っていたはずの未来——これから経験できたはずのすべて——を根こそぎ奪うからだ、という考え方だ。これは、殺人と他の危害(怪我や財産の喪失なら、治療や補償で埋め合わせがきく)との違いをはっきりさせてくれる。殺人だけが、根本的に取り返しがつかない。

### 当初こう考えたが、見直した点

初稿では、この「不可逆性(やり直しの余地がゼロになること)」こそが、殺人が禁止される根本原理だ、と結論づけた。これは誤りだった。指摘を受けて気づいたのは、**不可逆性は害の重さを説明できても、禁止そのものを生み出す原理にはならない**、ということだ。古い木を伐ることも、種を絶滅させることも、人の脳に消えない損傷を与えることも不可逆だが、私たちはそれらを、程度と手続きをつけたうえで実際に行っている。「取り消せないからいけない」だけでは、まだ一段足りない。

その足りない一段を埋めるのは、結局、先に挙げた「社会契約(信用・保険)」や「カント的な相互拘束」のような、**そもそも他者を尊重すべきだという土台**の方だ。不可逆性が説明できるのは、その土台の上で、なぜ殺人が数ある違反の中でも最上位に来るのか、という**序列づけ**の理由であって、ゼロから禁止を生み出す根っこではない。

同様に、将来剥奪説を殺人一般の唯一の決着とするのも、初稿では強く言いすぎた。この説明は「被害者本人にとっての損失」に照準を絞りすぎていて、本人が死を望んでいるような難しいケースをどう扱うかや、殺人が同時に周囲の人間関係の中の出来事でもあること(遺族や共同体に生じる喪失)を周辺に押しやってしまう。

なので、今の私の結論はこうなる。**殺人を禁じる土台そのものは、相互性(社会契約・信用)や相互拘束(カント的尊厳)のような、関係的な原理が担っている。不可逆性(将来剥奪説)は、その土台の上で、殺人がなぜ他のあらゆる違反より特別に重いのかを説明する、独立だが二次的な理由だ。**両方揃って、はじめて「なぜ殺してはいけないか」への答えとして機能する。