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jrf> Twitter (X) で偽善論が話題。
拙著『宗教学雑考集』《善》
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今現在の自分なりに「神義論」を考えてみよう。
まず、《有神論の基本定理》がある。つまり、善いことをすることには、直接的とはいいがたく、ある意味間接的に、善い報いがある。…ということである。
そして、『ヨブ記』のエリフなども持ち出す自然の摂理がある。それは人間というものを越えた何がしかの創造の摂理があることを表しているようにも読みとれる。災厄はそういった大きな流れの中の摂理として起き、その善さは人間のスケールでははかれない。その中でも善人は「間接的」に善い報いを受けているはずだが、個々のスケールでみると割に合わないことも多いであろう。
神はある意味、現実在については、全体しか見ていない。すべての個も見ているが、個は偶然にしかかえりみようとなさらない。個々の帳尻はきっと「死後の世界」も含めた虚の世界において達成されるのであろう。そして、その虚の世界の出来事の話は、現実在にちゃんと影響する。ただ、どこまでが現か虚か、個か全かはこれもはかりがたいものとなるのだろう。(そのあたりは、{{chapter:宇宙論}}で論じた部分に関わる。)
だから個人の直接的な報いは神にはあまり重要でない。または、そう見えるのは問題ないということだ。しかし、個人の善に神が関わることがないのかといえば、そうではない。
私はこれまで生きてきて、どちらかと言えば、この世に偽善以外の善はなく、だから(善に意味がないとするのではなく、)たとえ偽善であると感じようとも、大善をなそうとして小悪を気にしないよりは、小さな善を厭[いと]わない道を意識として持つべきだと思うようになった。
現実在における善はある範囲における善のみであって、大きく見れば偽善なのだ。何かを見過ごしている。<b>人がなせるのはせいぜい偽善でしかない。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。</b>そして虚の世界にわたることになるかもしれないが、善い報いがあるのだろうと思う。
「神は善とされる」という部分には二重の意味がある。第一義的には神が足りない「善」でも恩寵[おんちょう]によって善と認めてくれるということだ。善であろうとした努力を認め、虚の世界でかもしれないが、報いてくれるのだろう。もちろん、報いがあるから善であるべきという話ではない。
第二義としては、神が虚の世界を通してかもしれないが、偽善の足りないところを補って善となるようにしてくれるという意味も込めている。この場合は、現実においても我々の偽善的行為が神の助力によって結果的に善として結実していることがしばしばありうるとなる。「善は不可能」とまでは言えないということだ。
神の義・善とはそのようなものなのだ。
誰かから見て善悪、自分の今の状態からみての善悪、やるべきだという should という相対的善悪、皆が決めたまたは誰かが決めた法の善悪…はあるが、絶対的善悪をいおうとすると、それは神にでも求めるしかないということだ。
ただ、上の《「ヨブ記」を読む》を読んでいただければ、こう書いている。
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旧約聖書は「宗教書」であるにもかかわらず、「死後の生」への言及は驚くほど少ない。義人が「死後救済」されるなどということはヨブ記の時代には言えなかったと見るべきほどだ。序の問いの一つ「しばしば善人が苦しみ、悪人が恵まれるのはなぜか。」に「死後に帳尻を合わせるからだ。」という答えはなくなる。
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私は、安易な答えを求め、今「救済」が見られないことに耐えられなくなったということかもしれない。「死後の救済」を好んで語るようになってしまった。
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逆に言うと、いつ義人が救われるのかと言えば、その生のうちと考えるべきで、神の介入=奇蹟があることをむしろ信じ続けることが必要とされていたのだと私は考える。それが「生ける者の神」への信仰だったと言えよう。
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今善きことをする人は、善人が現実在において救われることをあくまで信じて「生きる」べきであろう。私は本当のところを知らないが、実際に「救い」はあるのだろう。上の虚の世界うんぬんは、きっと、外面的にそうであるようにも受けとれるようにしてくれているという以上のことではなく、それこそ「虚」でしかない。
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