キリスト教の事を知ればキリスト者になってる、そうなってないならキリスト教を理解し…
jrf> キリスト教の事を知ればキリスト者になってる、そうなってないならキリスト教を理解していない。…という言説には違和感がある。 おそらくキリスト教は愛の宗教で、ヘブライ語ידעが「知る」と同時にある種「愛する」も意味するところから、知の極北にキリスト教はある…というところからこのような言説に繋がっているのだと思うが、しかし、ヘブライ語(ユダヤ教)的知識がキリスト教と近づくのはキリスト教のごく初期をのぞけば、かなり現代的事象であり、伝統的理解と異なるはず。 カトリックの長かった時代は、聖書を読むことも普通の人はやっていないことが多かった。だから読書階級を前にしたとき、聖書すら知らないというひけめはあり、キリスト教の知を誇ることはなかった。ある人が自分よりキリスト教(の聖書)のことを知っていて、例えばユダヤ人で、なおかつキリスト教徒でないことは普通にあり得た。 その場合は、キリスト教とむしろ同じく流通していたソクラテスの無知の知のほうが、彼らにとっては誇りをもたらしていただろう。 聖書を普通に読むプロテスタントの時代になって、普通の読書人よりはキリスト教について知っているキリスト者が増えたかもしれないが、キリスト教は理性で理解できるという考えも広まったはずで、それと信仰は別という考え方も強かったはずだ。その一致が必ずあるという主張は傲慢に思える。 知を誇るのが、謙遜を美徳とするキリスト教に合うとも思えない。 《circleback🙃:X:2026-04-04》 https://x.com/circleback/status/2040411285310071118 >キリスト教のことを良く知ってるなら絶対クリスチャンになってるはずなので、クリスチャンになってないならキリスト教のことを理解したとは言えないだろ そもそもキリスト教が真実ならクリスチャンになる以外の選択肢が残されてないのだから ローマ帝国時代は真実を信じたから大量に殺されたわけで < 《Emmanuel Etienne 中嶋哲史:X:2026-04-05》 https://x.com/ema_credo/status/2040667828374962573 >どなたかもおっしゃっていたように、キリスト教を知るということはキリスト教の信者になるということであり、信者にならなければキリスト教を知ることはできません。これは教会が閉鎖的だということではありません。キリストの門はすべての人に開かれています。入るも入らないもあなたの自由です。<