仏性とか如来蔵とかの議論は、一つには救いの議論で、人の固有性は永遠に救われうるか…
jrf> 仏性とか如来蔵とかの議論は、一つには救いの議論で、人の固有性は永遠に救われうるか、逆に言えば、『宗教学雑考集』《悪》で示すような「地獄」にどう永遠がありうるか…という議論につながるのだろう。 『宗教学雑考集』《悪》 >地獄に永遠にいる人間はいなくなるかもしれないが、悪という概念はあり続け、地獄の炎で永く焼かれ続けなければならないということはあるのかもしれない。例えば窃盗という悪は、その概念が、地獄の炎で焼かれねばならないのかもしれない。しかし、それも恒星の炎のように人間から見れば遥[はる]かに永いときではあるが、終りはあるのだろう。 < 窃盗や殺人の概念すら狭義の永遠の地獄に値しないなら、人はどの属性を取ってもいずれ救われているのだろう。それらの概念より不滅な永遠の「我」がないとするならば。 もう一つは、要は、坊主はなぜエラいかの問題だ。坊主が、なぜ自分は救われうるとするのか、そして、自分だけが救われるわけではありえないことをどう納得するかの問題なのだろう。 ここには梵我一如の直感をもたらす胎児感覚が影響しているというのが私の論になろう。その直感が、文化の違いをきわだたせ、文化保持者の元締め的な僧に権威をもたせる。坊主が偉いの根拠が胎児経験にあるなら、すべての人…だけでなく、すべての産まれる生き物に「それ」はあることになる。例えば動物は「教育」はできなくとも、「輪廻転生」の文化的秩序の中に配置できる。「山川草木悉有」の場合は、ある意味すべては地球や宇宙から産まれているではないか…ということであろう。 『宗教学雑考集』《梵我一如と解脱》 >「梵我一如」が私のいうように素朴な胎児経験の感覚に由来しているといった場合、そうであることの「悟り」を理論的に精緻化していくのは、「祭式を複雑なもの」にしていくのに相当するのだろう。「真実」は普通人が思い出せない胎児経験であり、それは他人でも似てはいるが違うものだ。それを説明しようとすると、幼児の印象に与える文化の違いが明らかにならざるを得ない。逆にそれを言葉にしていけば、文化を固定化・保守化することになる。そこには、権威が生じやすい。 「梵我一如」が真理だという感覚が先にあり、それをもっともらしくするために理論を構築する…。親などが不如意だったストレスが、「苦」と名前を変え、その「苦」がないところに解脱的「梵我一如」がある…と考えるなどのはその一例で、それが仏教となっていったのかもしれない。 もちろん、繰り返すが、そういう真理が先にあって、人間がそれを正しいと感じるように創られた、そしてそういう真理に到達するものが偉いと認められるように創られている…という可能性を排除するものではない。 <