私は「諸行無常」を「諸行無常」自身に適用できると思う。あくまでも「無常」は「諸行…
jrf> 私は「諸行無常」を「諸行無常」自身に適用できると思う。あくまでも「無常」は「諸行」について言ってるのであって、「諸法」については言っていない…という者も多いかもしれないが、私はそう解釈したい。 「諸法無我」という真理もまた無常であるとすれば、アートマンの存在もありうるという話になりうる。それはおかしいと思うかもしれないが、しかし、涅槃を遂げた「我」…それを「我」と呼ぶべきかはわからないが…それはアートマン「的」ではあったのであった。 「諸行無常」自身に「諸行無常」適用すればどうなるか。それは常にある法則があるということになる。それはつまり「諸行無常」自身がその常にある法則ということに気付く。しかし、それ自身が常にあるというなら、それは「諸行無常」自身に反している。これは矛盾なのだ。だが、矛盾がしばしば重要な役割を果たして生成されうるのが「リアル」であるというのも真理のように思う。 AI の生成を参考に、人の世も(生物の世もそうかもしれないが)最適化過程で、望ましい定常状態からズレたところから、意味を生成していくと考えてみる。そのズレが大きな意味で「カルマ」でもあるのだろう。こう捉えると、人の罪や霊の業だけがカルマでなく、より広いカルマ認識になる。 その上でカルマを消す「涅槃」とは何なのか? 世に生きるということは意味が生成されていくことで、意味は生成され続けなければならない。とすれば、カルマは必要ということになる。そこで「涅槃」とは何なのか? 冗長な意味は必要ないということかもしれない。ある種の繰り返しの終端が涅槃なのではないか。そうすることで、新しい意味を生成しやすくなる。しかし、ならば「新しい意味」を生成することがなぜ良いのか。 涅槃が救いということは「新しい意味」が救いになる者があるのだろう。そうしなければ救われない者がいる。ということはそれがなくても救われてきた者がいるということだろうか。「古い意味」でも救いはあった…と。そこに終端を課すことにもなるのではないか。 「新しい意味」が救いとなるのは、終末の発見がこれまでにあって、それに対する救いに向けて「新しい意味」が生成されるからだ。しかし、そこには救われる者が続いていなければならない。ある意味、意味の繰り返しが前提とされているのである。 そこに涅槃の矛盾性・生成力があるのだろう。「古い意味」の救いが生命力なのだろう。