末永高康訳注『孝経・曾子』>(…『孝経』では…)自己の身体が父母の「遺体」である…
jrf> 末永高康訳注『孝経・曾子』>(…『孝経』では…)自己の身体が父母の「遺体」であると考えられている。この場合の「遺体」とは、父母が伝え「遺した体」の意味で、これを大切に扱って傷つけないのが「孝」であるとされる。これは自分の身体を己が所有とし、己が自由に扱えるとする考えとは真っ向から対立するものである。もちろんこれは子の身体の所有権を親に帰するものではない。父母の「遺体」が自分であり、そのさらなる「遺体」が自分の子であるのだから、子の身体を親たる自分が自由に扱うことはゆるされない。 (…) 自己を父母の「遺体」と見る思想においては、身体さらに生命は個に専属するものではなく、より大きな生命の流れのなかで個に分与されたものとなるのである。この生命観の構造を解明し、そこにある「孝の宗教性」を明らかにされたのが加地伸行氏である。 <(p.239-240, 解説) 拙著『宗教学雑考集』では「総体として生きる」のも大事なテーマであった。それは全体主義につながりがちなものではあるのだが、それを含めてだいたい私は肯定したのだった。