『宗教学雑考集』に入れるかどうか迷って、おそらく入れない…と判断したもの。…
jrf> 『宗教学雑考集』に入れるかどうか迷って、おそらく入れない…と判断したもの。 輪廻転生に対するヘーゲルの説と私との対話… ヘーゲル『宗教哲学講義』(山崎純 訳)を読んだ [cocolog:95175021](2024年12月) >> >魂は不死であり、死後もなお存続するが、しかしいつも[精神とは]別の感覚的な仕方で知られる。このような表象が輪廻である。魂は神と同じように、自己のうちにあるものとして抽象的にとらえられるから、魂が死後にどのような感覚的な形態に移るのか -- それが人間の形をとるのか、それとも動物の形をとるのか -- はどうでもよい。<(p.266, 第二部) スピノザにおける魂の不死性は、無限論理延長に自らが参与するものだった(と思う)。ヘーゲルの発展は、スピノザに捨象された個別性も無限論理延長に連なるとすれば、役割のある客体は無限に存在しつづける、そういう形の不死性もある、ということだろう。(人々にとって・理性的存在にとって)意味のある客体でさえあればいいので、それが自然の中でどのような形を取ろうが、人間だろうが、動物だろうが、どうでもよい。…と私の言葉で表せばそうなるのだろうか。 私は「有神論の基本定理」において、因果応報を重視した。しかし、ヘーゲルを筆頭に因果応報という言葉は使わない。しかし、上で「客体」は因果応報の客体的であるから、私はそういう言葉を使った。ただ、私も「有神論の基本定理」の因果応報はそのまま本人の魂に帰る形ではないように説いている。その屈折が、「動物などへの輪廻」性と解釈できる…ということかもしれない。 << このような輪廻理解は唯物論的過ぎるのだと思う。仏教はそのような見方を否定はしないがそれだけとはしない。私は次のように書いた…。 『宗教学雑考集 第1.0版(予定)』《梵我一如と解脱》 >しかし、(…十二因縁論など…)こういった精緻化は、輪廻転生を一方においてかかげるからという側面があるようだ。なぜなら、キリスト教の正統などでは、個人においてそういう精緻化はあまり行わないからだ(キリスト教でも神秘主義になるとそういうものはある)。もしかすると、そこには、輪廻の理論が無意識に与える「死後、(自己が残り続け)感覚(痛覚)がどこまでもあるのではないか」という不安を断ち切る必要があるかないかが問題として横たわっているのかもしれない。十二因縁論などには、解脱者の中では、その無意識的不安を断つ効果が、もしかするとあるのかもしれない。まるで臍[へそ]の緒[お]でも断つかのように。< 逆にいうと転生に関して臍の緒を断つぐらいの急迫性を感じないのならば、唯物論的考えに傾き過ぎているのだと思う。 これがアートマン説にまで至ると、霊肉二元論がかなり強固になり、肉体は簡単に捨てられるもので、それはそれで「臍の緒を断つ」必要はなくなるのだろうけど。