種別[gsm] 2023-05-21T20:47:04Z
セクショングローバル共有メモ
日時2023-05-21T20:47:04Z
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「法で人が応報すること」・「技術などの知識の蓄積」は、人が神に近付こうとしている…

jrf> 「法で人が応報すること」・「技術などの知識の蓄積」は、人が神に近付こうとしているとも言える。

一方、神が人となる…という方向に付いては、キリスト教につながる神の「転生」の一回性みたいな議論を確かどこかに書いた…。

[cocolog:93039063]
>神性人性の議論(単性説とか)において、まず、人が神に近しいものになれるとしても神でなかった者が神そのものにはなれない…というのは、唯一神信仰でそれを認めると、神が人になって天に帰るという構造になり、それはつまり何度もあって良いということになり、輪廻転生と変わらない。まずそこを避けるというのは、「最後の審判」のほうが絶対的な教えであるということだろう。あと、救世主イエスを神と見ることを避ける道もなかったのだろう…真の救世主は「終末」における唯一神のたった一度の転生という信仰理論が先にあったか。<

[cocolog:93369982]
>人であるキリストの行為だからこそ人は倣えると感じることができ、キリストが神だからこそ、倣わなければならないとわかる。それが成り立つタイミングに神は人となられた。そのタイミングは、真の救世主は「終末」における唯一神のたった一度の転生として理解できる宗教的環境があり、ローマの支配で、市民の憎しみが警察などに共有されず教えが活かしやすい時であった([cocolog:93039063])。そういう「時」はこの先もあるように思えるが、実は広い宇宙で一回きりのタイミングだったのかもしれない。<

菩薩が、ブッダと成ることが決まってからも、何度もこの世に現れるのは、まさに「転生」と解釈される。そういうのを嫌った宗教があった。

>最後の審判は、輪廻転生に比べて、上昇志向を焚き付け、現世での革命を志向しがち<([cocolog:93039063])で、それをユダヤ教→キリスト教は選択する。そこはまず絶対で、だから「輪廻転生」は否定されねばならない。しかし、神が人に「転生」するのが(最後の)一回だけなら、それは「輪廻転生」ではギリギリない…という理論がキリスト教創始のころのヘレニズム世界にはあったのではないか。そして人となった神こそが「救世主」である…と。

なぜ「救世主」という概念が生まれてきたか? 平等への待望が広まり、革命を担う誰かを求めたからではないか?

なぜ平等への待望が生まれたか? 教育の普及…学べば言葉をまたは文字をほとんど誰しもが使えたという人類の偶然が、能力の平等を意識させ、商業がチャンスを希求させ、さらに戦争が能力主義を求めたからではないか? 能力が同じなら分配も平等に…そうしなければ争いが起こるとできたのが原点ではないか。仮に能力が劣ることがあっても、それは障害者のようなもので、偶然であり、補うべきものとできた部分もあったか。

征服された民族では、どうしても征服者と差が付き、そこに「平等への待望」が広まる…ということではないか。革命の方法は、まず征服者に面従腹背しながらテロを是認することがあり、それを経済的に支えるために、「救世主」宗教が出てきたのではないか。

その性質上、お上に睨まれないようあからさまに宗教の中枢に集金しないのが、支持を増やす秘訣でもあったか。自由な経済と相性が良かったのだろう。

一方で山賊や傭兵を増やすより、征服者の支配に従うほうが商業にとっては効率的で、「救世主」宗教は宗教にとどまる限りは、征服者にとっても意義があるものとなっていったのかもしれない。