種別[gsm] 2023-05-19T10:58:00Z
セクショングローバル共有メモ
日時2023-05-19T10:58:00Z
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(承前) 補足。…

jrf> (承前)

補足。

「「ブッダ」による因果応報の超越は、偶然とはならないラインを決めそこで応報すべき善悪が釣り合うところをその「ブッダ」の世界とすると考えられる。」…と言い切っていいものかと迷っている。

これは原始の釈尊の涅槃ではなく大乗の涅槃の理論であるのだろうと思う。修行者が「ブッダ」になったとき、次の生が「仏国土」に転生する…というわけではなく、「ブッダ」になった瞬間、「仏国土」が現れており、そこに「ブッダ」として現れている、修行者が生きている場合は、その「仏国土」に「ブッダ」としている生とは別の生として修行者の生が残るということではないか。その生を菩薩として生きることができ、菩薩として転生することもできるが、それは「ブッダ」から転生しているのとは違う…ということではないか。その「ブッダ」は生死を超越していて「涅槃にある」という。つまりは、生も超越していて通常の意味で「生きている」というわけでもない…と。かといって法律のような言語化できる抽象的概念になっているわけでもない…と。「抽象的存在」とはギリギリ言えるのか、言えないのか…。

「応報すべき善悪」が存在するということは「応報すべき善」と「応報すべき悪」は存在し、因果応報の超越はないのでは?…という議論もできる。ただそれは「すべき」というだけで、釣り合っていれば応報されないでよいとされるということではないか。善は個人に応報されず全体に応報される。悪は全体に及ぶことを個人に追及し、広がるのを防ぐ。しばしばそういうものだ。「仏国土」にも善や悪はあり、応報は「ブッダ」がしようとせずとも「仏国土」が自然になす。全体としては善悪が報われる。…ということではないか。「仏国土」がどう応報し応報しないか決め、その決め方に釣り合いがある場合、その「仏国土」はリアルになる。そう信じる。…ということではないか。

(今風に言えば、ワールドを作るのが修行者の目的なんだろうか?)

「仏国土」は(バーチャルには)どこかにあるとできるが、娑婆世界の一時代の一部として部分的に現れることができるとすれば、現実とかかわりを持たせることができるが…。