種別[gsm] 2023-03-27T00:44:20Z
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日時2023-03-27T00:44:20Z
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hachetten>マリーノが人生の境界線をまたごうとした刹那、「愛の本質のよう…

hachetten>マリーノが人生の境界線をまたごうとした刹那、「愛の本質のようなもの」を(「見た」=認識)したのではないかと思います。その景色はそれまでの生涯で決して知ることのなかった(「愛の姿」=黄色い薔薇)で、あり、それはむしろよい方向のもの(=“黄金の影”)。
しかしその「死の境界」で悟ったそのような「愛の本質」はマリーノがそれまで求め続け、接してきた書物の数々では決して語られることのなかった(=誇らかな書物は(彼の夢みたような)世界の鏡ではなく)、もしくはごく一部でしかない(=“さらに”一つの物でしかないこと)
を悟った…。

ボルヘスの作品に出てくる「多様な一つ」と、このマリーノの死の直前の「一つ」は前者に比べて、趣を変え、形而上的でなく、むしろ単純な「ごく一部」、「ごくはしくれ」という意味ではないでしょうか。もしボルヘス流の「多様な一つ」であれば、「…さらに」は文脈としてやや適正を失っている気がします。
…さらに、は「世界が権威とみなす書物の品々は実は出鱈目だった」を、“さらに”追い打ちをかけるべく「ごくはしくれ」だったことを「一つ」として“詳述”しているのではないでしょうか。
もし、マリーノがそれまでの生涯で慕ってきた(あるいは信じてきた)「誇らかな書物」が、そのような悟りの中でも言葉通りに合致していたなら、“「黄金の影”は正々堂々広間の「中央」、そのものに注がれるか、その「誇らかな書物」に影を落とすべくはずで、しかしそうではなく、注がれているのは「片隅」です。
<片隅?と表現することで、ボルヘスはそれを「生涯では気付かなかった場所」にあることを暗喩し、生涯で得た既知が誤りだったことを土壇場で悟り、否定した、ととることもできるように思います。

「黄色い薔薇」は、愛の中でも「熱愛」や「愛の告白」めいたものでなく、人間同士の絆に近いものとして比喩されますが、単に「薔薇」とか一般的な「赤い薔薇」とはせず、あえて『黄色い薔薇』と題したのはそのような属性の愛についてのメッセージともとれました。
JRFさんの「小が大であり、一つがすべてである」思想と重ね合わせることで、ボルヘスのこの作品の深い解釈の本質に入れる気がしています。