人は生きてるうちに悔悛の機会が神から必ず与えられるはずだと信じることもできる。死…
jrf> 人は生きてるうちに悔悛の機会が神から必ず与えられるはずだと信じることもできる。死刑は、死すべき人の生きてるうちでの改悛の機会を奪うから悪なのか? ここでイスラム教アシュアリー派の三人兄弟についての問答を思い出す。[aboutme:125348] にも出てきた。 >「長男は正しい信仰者として、次男は不信仰者として、三男は幼くして死んだ場合、長男は天国の最上位に、次男は地獄に、三男は天国の最下位に行く。三男が早く死んだのはそれ以上生かしておけば、不信仰者になったからである」という師の言葉に、アシュアリーは「神が次男をそうと知りつつ生き延びさせたのはなぜか」と問うたが、師は黙して答えなかった。そこでアシュアリーは回心をした。< これに私は応える。 >それは、三男が死んだのは、他の人の自由意思の結果により、三男が不信仰者として一生を終わるしかなかったのに対し、次男にはもっとマシな選択肢があったのだが、それを選択しなかったのである。と答えることができる。 だが、私もこの答えに違和感を持っている。< 三男には罪をおかす機会が与えられなかったし当然悔悛の機会はなかった。そのまま生きていれば、周りの者を不信仰者にしたからとするなら、なぜそのような者が生まれたのかということになる。それでも生まれたほうがマシだったということはありえようが。 他の人にとって不利益になるから、死ぬべきという判断が社会的になされることはあるし、それが悔悛の機会を奪うことがあるのも事実だ。しかし、幼子のまま悪を悪とわからず悔悛の機会さえなく死ぬこともありうるし、死が多くの人に(本人も含め)悔悛の機会または罪に堕ちない機会を与えることも社会的にはある。 改悛しなくても進化の過程などで精算は済んでいたという考えも有効であろう。その場合は、社会がそれにケリを付けるのである。死刑が本人の再度の罪を防ぐことがあるというのは、犯されてない罪で裁くことになるのでそれはそれで悪だから、死刑を是認する理由にはなるまい。しかし、社会にとっては意義のある考え方ではあるだろう。 だからこそ、社会の問題だからこそ、「追善供養」に意味がなければならないと私は願う。宗派によっては霊的に意味がなくても、社会的に今生きる者にとって意味があると思いたい。 追善供養に必要なのは極言すれば「祈り」だけだと思う。他のものは飾り…記念のようなものだと思う。