フラクタル次元と華厳経について考える。…
jrf> フラクタル次元と華厳経について考える。 次の部分からおそらく間違った妄想的推論を行って…、 《コッホ曲線とくりこみ群 | Mathlog》 https://mathlog.info/articles/2423 >場の量子論の具体的な計算は、基本的に複雑で面倒くさいです。どのようなダイアグラムを計算するかを選び、正則化の方法を決めてそれぞれのダイアグラムに対応する積分を計算し、くりこみ条件をおいて発散部分を除去し、有限部分を評価するという過程を経ます(何を言っているかわからなくてOKです)。初学者が計算すると、1つのダイアグラムの積分の評価だけで何時間もかかかったりします。計算の大変さ以前に、そもそも思想的に理解しがたい・納得いかないかもしれません。次元を複素化して4次元からちょっとだけずらすとか、無限大をパラメータにくりこむとか、なかなか馴染めないと思います。< …無限をくりこんでフラクタル次元にしているというイメージを持った。そのくりこみのため、その上ででできる「写像」は、通常の空間でなされる写像よりも制限されるのではないかと考えた。これが、「華厳経」…大角修『善財童子の旅』を読んで([cocolog:93335769])考えた「宇宙の構造」を思い出させる。それはこんなものだった。 > 無限を望めば境界が生じ、ところどころ偶然があるのではないか。メーガシュリー比丘のところの「池に無数の蓮華が咲いて点々と水面をおおうような法界」というのの「スキマ」にあるのは「偶然」ではないか。 有限に涅槃するがゆえに逆に無限に影響できるということもあるのではないか。涅槃を選ぶのは、ゼノンのパラドックス的有限における無限を選びそこで普く法となることで、スキマなく影響できる。菩薩になるのは、その無限を超えようとすることだが、その無限は境界があることを避けられず影響が偏在的になり法とは呼べなくなる。…ということではないか。 無限と転生・涅槃の関係は、梶山雄一『大乗仏教の誕生』を読んだとき([cocolog:93307988])、考えたことに影響されている。 < 通常の物理空間で連続写像を考え、それを「法」とするのが「有限に涅槃する」ことに相当する。くりこみ上で連続写像を考え、それを「法」とするのが「菩薩になる」ことに相当し、連続写像は、Transfinite induction において Limit case が欠落していて最低そこで「穴」ができる…「境界があることが避けられない」ということではないか。 《Transfinite induction - Wikipedia》 https://en.wikipedia.org/wiki/Transfinite_induction おそらく、くりこみによるフラクタル次元は、そこに含まれない影の部分が多く、Limit case だけでなくその影の部分でも連続写像が定義できないとはなるのだろうと思う。 このアナロジー、私にはとても魅力的だが、しかし、物理のくりこみは極小に向かっていくのに対し、華厳経は無限に向かっていくという面で違いはある。当然、くりこみについては私はよくわかっておらず、勘違いもあろう。あくまで、「おもしろそうなアイデア」でしかない。