[cocolog:93262666]>師茂樹『最澄と徳一』<を読んで考えたこと。…
jrf> [cocolog:93262666]>師茂樹『最澄と徳一』<を読んで考えたこと。仏教に最後の審判を取り入れる方向について。 仏教は、過去かなりの期間に渡って人が生き、この先もかなりの期間に渡って人が生き続けることを想定しがちだ。しかし、我々は人類の登場した過去がかなり昔のこととしても仏教が想像したほどには昔まで遡れないことも知っている。未来もかなり未来まで続くかもしれないが、仏教が想像したほどの未来までには届かないかもしれない。 人類・世界が滅ぶかもしれない。そのときブッダになっても教えるべき人がいない・物がない。もし、それが別の新しい世界につながりうるというとき、それは記録などが残って…という唯物論的な継続ではなく、奇跡による継続ということになるだろう。そのような「奇跡」を認めるなら、なぜ、独覚に回向して彼がブッダになるような奇跡もないと言えるのか。そういうこともありうるのではないのか。…と思う。 必然による転生も、滅びによってついえつつ、なお継続するなら、「奇跡」を介して継続して何が悪い。その「奇跡」は神的存在であったりもっと卑小な者の意志の偶然である…いや偶然だからこそ「奇跡」なのかもしれない。