[仏教の最適化プログラムの続き。]…
jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。] 主題からは外れるが、易の話もしてきたのでここに書く。 高田 淳『易のはなし』(岩波新書 新赤版 25, 1988年)を再読する。 王船山の錯綜論・消長論は難しく今回は理解できなかったが、いつかはちゃんと理解したい。 ……。 本からは少し離れるが「聖人」について…。 「仁」の解釈について、間違っているのだとは思うが、やはり私は「人は聖人にはなれずなれるのはだいたい二番目の人と書いての仁である」というふうに解してしまう。 聖人というのは、仏教では梵我一如のアートマン…涅槃に入り法となったホトケに似ていて、ある種の理想像で、ただアートマンなどと違って人格神的…神は余計か…人格があって時代を画して人を支配しているものだと考える。たまたま同時代にそれがいるとなることもありうる…いや仙人的でも良いなら必ずいるのかもしれない。 尭舜禹が聖人であるといっても、生きている彼らは仁でしかなかったのではないか。しかし人々が望む聖人の役をよく引き受けたから、人々からは聖人と見られていたし、死後聖人であったという評価になったのであろう。というか人々の中に遺った姿・おもかげが聖人とはどのようなものかの規範となったのであろう。 孔子が聖人であるというのはまた違った意味がある。孔子は仁であり君子ではあったのだろうが、支配者ではなくその意味では聖人でなかった。しかし、死後その後の時代、君子を支配する規範者となったことにより、その後の時代を聖人として生きている…ということではないか。 ……。 日々生きる人が陰か陽かはスッパリ割り切れるものではない。陰は陽を含み、陽は陰を含むとはいうけれども。君子か小人かも同じ。 ……。 悔吝について。 >悔とは、行えば必ず失うから憂えるべきことを占者に示しているのであり、吝とは、求めても必ず遂げることができないから慮[おもんばか]るべきことを占者に示している辞なのである。<(p.162-163) >君子にとっては、吉は疑うことのできない道、凶は避けることのできない義であり、悔いは逆らうことのできない行の幾[きざし]、吝は違[たが]うことのできない止まる時を示す。<(p.163) >悔とは(…道の…)得を欲すること、吝とは失を戒めることである。<(p.164) 悔いとは何かを失うとわかっていても道を得るために進むしかなく、吝[うら]みとは得たいと思ってもその道を失っておりとどまるしかないことを言うのか。でも、こういってもいまひとつよくわからないな…。 ……。 聖人の話の続き。 聖人と人格神の違いは聖人には死があるということだろう。上に挙げた君臨する孔子には実質死はないが、しかし、死は彼にあったもので避けられなかったものとして扱わねばならない。「復活」などはないし、死後に天界などで本当に生きていて影響しているのだ…という概念も(ほぼ)ない。 ただ、死を克服した仙人という概念は中国思想には別にある。しかし、それは隠者的で逆に思想にはあまり影響するとされないのがおもしろいところだ。