[仏教の最適化プログラムの続き。]…
jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。]
以前、カルマが私のシステムでは易の「吉凶悔吝」の「悔い」にあたるのではないかと考えた。しかし、それだけではなく、重犯罪の際、被害者の親世代の過去の「うらみ」が宥められていることを考慮したが、それもまた被害者側の「悔い」ではないかと思い当った。囚人になってカルマがなくなるというのと似ているということか、むしろ、カルマの自然減少に似ているということか、それらとの混同があるということか…。
「宥める」ということには「悔い」を刺激せねばならない部分があるように思う。「偶然」が自分やその親族に振りかかったとすればどうだったかという反省・悔いが、感情・思念を宥めることにつながる。…といった感じか。
一方の「吝[うら]み」も単なる憎しみとは違う部分があるはず。それは正義を求める心や教育を望む心も表す…とかあるのだろう。こちらは(「悔い」より一層)まだ詰めきれてない。
…ただ、正義を求める心という部分は、現世の hating が多いと、捕まる人や監獄が多くなるというふうには少し反映はしているか。
……。
カルマ自体は「悔い」ではないか。悔いることでカルマが減る。収監されてつとめを果たしてカルマがゼロになったとき、振り返れば元のカルマが悔いるべきものを指し示していたという感じか。
それとも「悔いるべき」も易では「悔」に含まれているのだろうか?