種別[gsm] 2021-03-27T13:44:28Z
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日時2021-03-27T13:44:28Z
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ポネル演出カラヤン指揮ウィーン・フィル『プッチーニ:…

jrf> ポネル演出カラヤン指揮ウィーン・フィル『プッチーニ: 歌劇「蝶々夫人」』(制作: 1974年) の NHK BS プレミアム 放送を録画で観た。

とりあえず、叔父の僧侶が出てきたシーンで爆笑するしかなかった。ここで爆笑できる特権は日本人のもので、日本人で良かったと感じることができる。まぁ、その他の小物も合わせて「本物」にし過ぎない配慮もあるのだろうが。

さて、「現地妻」という言葉がなくなって得をするのは誰か、「master」という言葉がなくなって得をするのは誰なのか、日本語の「主人」と「master」を同じ言葉として意味をずらすことで得をするのは誰なのか、なくそうとしている側は私より頭が良い人・若い人ばかりなので、わかっていてやっているのだろう。それをなくそうとするのが仲間を売ろうとしているように見る人がいるのもわかって、逆にそれでも得られる信頼が大きいと計算できているだろう。そう見る人の周囲からどう見えるかも当然わかって、なくそうとしているのだから、一部の人にとって大変屈辱的なことだというのもわかっているはずだ。

もちろん、信用しあうことは大切で、なくそうとする人が信頼する人は実際信用できる人だが、その人が信用を得ようとしている(あなたでない)相手方も当然いる(もちろん、その相手方にもその上の相手方がいる)。そして賢い若い人達はそれをわかってついて行っているのだろう。「民主党」かなんかは知らないが、「食い込ん」でいるといってもその実態は知れたものだが、それでもかまわないだろう。この先の時代が恐ろしい限りだ。

物語は、先の「リゴレット」と同じく胸糞悪いものだが、「リゴレット」のジルダに何のキズがなかったのと対称的に、蝶々さんには蝶々さん側の問題が描かれているのが、人間理解が深まったのか、潔くなくなったのか…。

蝶々さんの思い込みの激しさは、没落から来ているだろうことで責められないものだが、その性格的問題以上に問題なのが、子供ができたことを領事にも知らせてなかったことだろう。蝶々さん側は、最後の切り札として、切り札を使わなくても「支援」が得られるものとして、取っておいたということかもしれないが。

最後、死んで憂いをなくすのが、どう虚飾をほどこしても、都合がよい。それが蝶々さんの問題を許すのにつながる構図にもなっているのだろう。

第3幕で糊塗されない、第2幕で感じていたものを、日本人はこの作品を観るとき忘れてはならないだろう。