[仏教の最適化プログラムの続き。] 性愛について。…
jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。] 性愛について。 一定の年齢になると性愛をはじめる。一定の年齢になると結婚する。不倫は一定の割合で生じる。結婚前の性愛は不倫の一種とモデル化できるか。思念レベルを高めて、それを振り向けると不倫の割合を減らすことができる。…と。不倫をすると一定確率で恨みが生じる。…と。 酒も性愛も一定の割合で「病い」のようになる。それが邪淫などとなる。基本は邪念という状態異常の一種で、仕事に支障をきたす。また、思念や思考を教えることが困難になるというのもあるだろう。思念エネルギーを勝手に性愛に振り向けてしまう感じか。邪淫であれば本人の恨みなどはしばし減じよう。ただ、不倫の割合が増えるとすべきだろうから、他者の恨みは買うのだろう。 回復は時間によって確率的に。思念を振り向けていれば、回復が早まることはあるかもしれない。 結婚後時間経過と共に、一定確率で子が生じる。不倫にも一定確率で(女性側に)子が生じる。結婚による子の数は、思念レベルによってコントロールも可能とすべきか。 ……。 病いについて。 病いは一時的な状態異常。ただし死に致ることがある。仕事はできない。財産を使いながら、時間を過ごすことで回復。思念エネルギーを振り向けてもあまり意味はないが、一定以上思念レベルを維持しないと悪化しさらに時間が必要になる。自分の生命を害する(害される)確率がかなり上がる。生命への影響は、その確率による。 …とりあえず、これがこのモデルにおける「病い」としよう。 ただ、「病い」があることのモデルにおける意味はなんだろう? 誰しも病いにかかることがある…それは平等だ…といったところだろうか。 思念エネルギーを振り向けても意味がないと書いたが、「ケア」は必要だろう。僧以外のものの思念エネルギーみたいなものも考えるなら、その振り向けも必要となってくるか…。 ……。 生きる喜びについて。 「生きる喜び」と「生きなければならない」には距離がある。生きる喜びがあれば病いにかかりにくくするか。それは「生きなければならない」に無理矢理つなげた感がある。「生きる喜び」がなければ、悩むことで思念エネルギーが安定しない。…ぐらいではないか。 「生きやすさ」ならば、「生きなければならない」をたすける効果はあるだろう。しかし、「生きる喜び」は「生きやすさ」の内面化という意味しかこのモデルでは見出せないのではないか。