[仏教の最適化プログラムの続き。]…
jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。] 僧が論理式を信者に教えて信者が思念とする話のつづき。 他の者も論理式を教えることができるが、僧のものをより信頼する。…「信頼度」みたいなパラメータがあるのだろう。ただ、信頼度そのままではなく、思考をすることによってか、受け容れた論理式を検討することでその式の信頼度を下げることもあるかもしれない。式の信頼度が下がると、それを教えた者に対する信頼度も下がりうるのだろう。 僧がバーチャルな真理体系を保持するのは、信頼度を維持するため。バーチャルな真理体系はそれはそれで健全性を示す別のモデルを必要とするのかもしれない。ただ、バーチャルな真理体系は唯一ではないだろうことには注意が必要だろう。 ……。 ある種の思考または思念で恨みのパラメータが下がるとはどういうことか。 恨みもある種の思念ではあるが、思念とは別にパラメータを持つ。ただ、恨みのパラメータをすべて説明できるような思念ができるわけではないだろう。そのようは思念は発見する必要があるとも言える。思念(信念)の中に恨みに影響のあるものが現れることができる。そういったものを寄せ集めたものの他になお、恨みの「誤差項」のようなものが残るだろう。 一般に、思念の中には、行動やパラメータを規定したり制限したりするものがありうる。思念とすべきものも最初は思考としてただの命題として現れる。それをどういう行動やパラメータに関わるかというものを指定して、思念に格上げするには、ある種のコマンドが必要という感じにすればいいのではないか? いや、なんでもコマンドを実行すれば格上げできるのはおかしい。 恨みをいじるには、こういう論理でなければならない…というのがあって、そこに思考がたどりつけば思念にすることができる。…といった感じではあるまいか。「ある人の悔いが大きければ恨みを下げる」というものが肉体的に定義されていて、「ある特定の A という僧が教えをすることで悔いが大きい」という命題を与えられ、その信頼度が高いと内部論理でチェックで出たとき、内部論理によって、「A の恨みを下げる」が導かれる。…という感じになるのではないか。 ……。 こういう論理式を使うところの無矛盾性は、最適化とは別の論理システムがあって、両者をあとから協調させる。…といったことができないか? 最適化のシステムでパラメータの数値が出る。その後すべてが終ったあとにでも、論理のシステムで、その数値と矛盾がないような論理式の構築がありうることを示せる。…という感じで。 ……。 僧の悔いてする「修行」は、僧自身は「悔い」だとは思っていないだろう。しかし、一般的には「悔い」…それを見る人にとっては「悔い」と同じ効果があるということだろう。