[仏教の最適化プログラムの続き。]…
jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。] 最適化論理の定理を導いていくことも、「自己の探求」に含まれるような気が私にはしている。しかし、普通、グローバルな定理はいくらあっても良いものだ。 逆に、最適化定理の集合を大きくしないことが、意味のあることなのだろうか? 生きやすくなる? 相続しやすくなる? しかし、そうすると、「個人」がもってる定理(公理)集合には、必ずしも「来世がなければ良い」「生きなければならない」「自己の探求が良い」が最初に含まれるとは限らなくなるだろう。どの定理集合からはじめるのが最適化みたいな視点も必要になってくる。 さらに分業的に、ある人が持っている初期定理集合と別の人が持っているものが違うほうが良いみたいな視点も出てくると思われる。 人が持っている定理集合が違うから、self を使った定理などが重要になってくるのではないか。 自己の探求が良いとされるのは、self を使った定理の受容が難しいからということもあるのではないか。 kernel と self か…。認識は self の認識でしかないが、self は自分の境界をそのままでは意識できない。認識の正しさは認識の外にある。認識が自分にとってどういうものかを決める kernel (ある種の定理的公理集合)があり、kernel の情報を圧縮・伝達するために self という情報を使う。…って、何か言えてるだろうか? 何も言えてない気がする。 でも、そうすると、グローバル変数的な学習…グローバルな中の「自分の名前」に紐付けられた学習…と、self に関する学習は違いがあるだろう。 self 自体が学習結果であるという洞察とどう関連付ければいいのだろう? kernel 内に何があるかも参照・学習できれば良いということだろうか? kernel を「遺伝子」として、機械脳が構成される…。機械脳の学習結果を元に学習するのが(その方法を示すのが) self に関する学習なのだろうか? しかし、これは上までの self とは質が違うな…。