[仏教の最適化プログラムの続き。]…
jrf> [仏教の最適化プログラムの続き。] >「苦がないほうが良い」は、「生きなければならない」と新たな環境的前提「苦がないほうが生きやすい」をあわせてそこから定理的に導くほうがよいのかもしれない。<…と書いた。 「来世がないほうが良い」から「執着がないほうが良い」を導き、「苦が強ければ苦のない(来)生を望む(執着を生む)」から、「苦がないほうが良い」を導くという道筋がありうる。 ただ、ここで少し立ち止まる。今生で苦がなくなるなら、来世までは望まない。また、来世にも苦が続くなら、来世を望まなくなる。後者を「来世がないほうが良い」と接続すると、逆に「苦があったほうが良い」が導かれるのではないか? これはおかしい。 「来世には同じ苦が続かない」という暗黙の理解があるのだろうか? しかし、それは今生を諦めても来世を望むことにつながりかねない。来世がなければ苦もないから、来世がないのが良いとはかろうじて言える。しかし、来世が必定となっているなら、来世を望む者が出るのを避けられないのではないか。 「来世・来々世(の苦)もなくす」が「来世がないほうが良い」に含まれていると考えるべきということだろうか。そして「(すぐに雲散霧消しない)苦を感じているうちは、来世が必定」ということになるのだろうか。 来世には同じ苦が続く可能性があるが続かない可能性もある。続かないとなっても「生きなければならない」から生きるべき…となるのか。 ……。 「自ら破滅すれば来世が必定」として、「生きなければならない」を命令的前提から落とせないか? 落とせない。「来世がないのが良い」に「子孫がないのが良い」も含まれると考える私の枠組みでは落とせない。