ガーディナー指揮『フォーレ:レクイエム(オリジナル版)…
ガーディナー指揮『フォーレ:レクイエム(オリジナル版) 他』。整った美しさではじまった最初の楽章は、"Christe eleison" のところでティンパニが、キリストに目の前の隣人に落雷が襲ったかのような悲劇性を与えた。私はそこから何が起こるのだろうと身構えた。 JRF 2010年10月30日 私の愛聴するクリュイタンス指揮の盤でも、そこは確かに悲劇の色が使われているが、それはあくまでも血そのものではなく、血も象徴する深い緋色であるように感じる。 そしてクリュイタンス盤では続く楽章から、「歴史」としてのキリストの物語をなぞりながら、レクイエムをもたらそうとするのに対し、ガーディナー盤は、フォーレの国、フランスのその信仰を描くところから個性あるがゆえの救いに誰かを帰[かえ]そうとしているかのように見えた。 JRF 2010年10月30日 まず、続く楽章についてクリュイタンス盤に沿って感想を書く。 2. 奉献唱 歌詞を考えずに聴くと、キリストの召命…天から聖霊が鳩ように降りてくるような神秘が見える。それは同時に受胎告知のための天使がマリアの前に現れることも表すのだろう。 そして人を導く主をキリストに見、世に奇跡が広まってゆくイメージ。聖霊がこの世を満たしていくともいえるかもしれない。 そこに歌詞をあわせてみれば、それは「願い」ということになる。幸せを生きる者にはなお願うことがある。 JRF 2010年10月30日 3. サンクトゥス これは「聖変化」、入信の様子だろうか。少し早い鼓動で、神の在り様が重なる幻視に誘う。それが自分に届かないと諦めてしまうほど高いところに位置したところで曲が終る。 4. ピエ・イエズ その神が人間イエスとして受肉し誕生する。人としてたしかに利発で、それより何より愛を受けている。やがてくる苦難を予感させながらも。 JRF 2010年10月30日 5. アニュス・デイ 成人し召命されたイエスが弟子を信徒を集めはじめる。牧歌的最初期の伝道から、やがて疑いの中「奇跡」を示す。そして弟子達は本当の不思議をともにして、やがて裏切りの雰囲気が高まる。イエスを売ったのは「私」でもあるのだ。「私」は混信の中、イエスを否定して、何ごとも起きないことに半ば安堵していたが、そのとき、なんとあっさりとイエスは復活し、光の中を上っていった…。 JRF 2010年10月30日 6. リベラ・メ 「私」は弟子として、罪の意識を抱き続けながら、人を訓[おし]えている。それは、「私」が火で焼かれることになったとしても伝えねばならないという信念でもある。 人は本当のところはわからずに、終末をむかえようとしている。「怒りの日」…そんなものは起こらないのではないかという「怒りを秘めた不安」を抱きながら、その日を過ぎようとしている…。「私」はその「怒りの火」に焼かれながら、自分が願うようになっていることの恐ろしさに不安になっている。 JRF 2010年10月30日 7. イン・パラディスム これこそ本当の聖変化なのだろうか。人は生きたままなのか、すでに死んでいたのか、神秘的な変化が起こっている。それは、傷だらけの心が、そのまま本当の生(すなわち「永遠の生」だろうか)を得ていっているかのように…。 ……曲の感想というか、キリスト教の「物語」の場面に相当するよう曲にイメージを当て嵌めてみたあけかもしれないけれど。 JRF 2010年10月30日 ……。 ガーディナー盤。 1. 入祭唱とキリエ 普段演奏される版と違い楽器の数が少ないオリジナル版での演奏とのこと。金管楽器がより鮮明な気がする。だからなのだろうか、金属的な響きというと語弊があるが、白や金の金属光沢を持ったオーロラが心の中でゆっくりと動く感じ。 そして、"Christe eleison" のティンパニがキリストの悲劇性を強調するとき、イエス以前のキリストの輝かしい預言への希望が、イエスの上に現実となったとき、その実現の虚しさを噛みしめながら、しかし、それをキリストの現れとして受け容れた人々、その「信仰」が想い浮かぶ。 JRF 2010年10月30日 2. 奉献唱 金属光択の揺らめきにほの赤いものが現れる。これは巨大聖堂の中、古い金属の華美な…というよりは過美な装飾の祭壇ではないか。アール・ヌーヴォーの元型としてのゴシック様式の教会か。 それが示す救いの「現実」…聖遺物…聖骸布のキリストではないか? その現実が救いだというなら、「我々」は、復活として墓からゾンビが出てくることを願っているのではないのか。 JRF 2010年10月30日 "Fac eas, Domine, de morte transire ad vitam" のところ、『バッハ:ヨハネ受難曲』でイエスから流れ出た血が虹を描く様を想い出した。 「我々」が願う「救い」の現実が地獄のようでしかないという不安を解消して安心させてください…。 JRF 2010年10月30日 3. サンクトゥス 『フォーレ:ペリアスとメリサンド』の「シシリエンヌ」の曲を少し思い出す。それよりフランス風なのかな、石畳みに緑がある小道を通るイメージ。これもまた「現実」であり、これは幸せではないか…。そこにも生活があるからいろいろなことがある。でも、これが「救い」なのですね…。 その小道から急に視界がひらけ、太陽の光をたくさん浴びた蔦が少しからまった教会の高い塔がそびえて見える。鐘が鳴っているかもしれない。…ああ、確かに「救い」は現実になっているのだ。 JRF 2010年10月30日 4. ピエ・イエズ イエスを抱くマリアの金属の像が想い浮かぶ。そこには愛がある。でも、それと同時にあったのはキリストの苦難の予感ではなく、マリアの苦難の現実がむしろあったのだ…。 JRF 2010年10月30日 5. アニュス・デイ マリアの現実がこの地に造った救いは男達の優しさなのだろう。 だが、一方でのその無責任は「マリア」の拡大再生産をもたらし、それがやがて「革命」を可能にしていくのかもしれない。 男達の優しさにも苦難の色がにじみはじめるとき、その子供達はキリストたる使命感を抱くしかなくなる。 この戦争の世に現実の光は何か、それがどんな救いであったとしても、現実ならばそれでいい…人がその「救い」を受け容れはじめたとき、それが母の優しさで語られはじめる…。 JRF 2010年10月30日 6. リベラ・メ ガーディナーのバッハのカンタータ集のジャケットは、国際的な紛争の犠牲者を想起させるものがある。 この楽章の最後、私はなぜか「国境なき医師団」を想い出した。 7. イン・パラディスム 天国にいると想う、その陶酔感は許されるのだろうか。だが、いずれにしろ、それが魂を鎮めるのに役立つのなら、それは救いの現実なのだろう…。 ……また、勝手に書き過ぎたかな。 JRF 2010年10月30日 ガーディナー指揮『フォーレ:レクイエム(オリジナル版) 他』 http://www.amazon.co.jp/dp/B0030AHBEA http://www.hmv.co.jp/product/detail/3727163 http://www.7netshopping.jp/cd/detail/-/accd/1300450979 JRF 2010年10月30日 クリュイタンス指揮『フォーレ:レクィエム』(歌詞対訳なし) http://www.amazon.co.jp/dp/B000PDZPJS http://www.hmv.co.jp/product/detail/2550475 クリュイタンス盤は歌詞対訳付きだった旧盤を聴いた。 JRF 2010年10月30日 typo 「光択」→「光沢」。 JRF 2014年7月25日