宗教的判断の認容
人は無限に生きる存在でもなければ、何事も0秒で行動できる存在でもない。認識が正しいからといって、時宜を得るまで行動を先伸ばしにできるとは限らないし、必要なときに適切な判断が下せるとも限らない。聖人が社長になるまで就職しない人間はいないし、目の前に降る爆弾をよけるのに重力の計算をする人間もいない。
その人にとって正しい結果をもたらす認識は、正しい認識よりも優れていると言えることがある。
実現可能な解決策を知らずに、「真実」を述べて人を不安に陥れることがある。このような場合、自分が考える「正しい認識」は、本当の意味での「正しい認識」に至っていないのである。
<b>参考</b>
《宗教と動機付け:神は至善か、暴君か》
更新:00/12/21
初公開:2006年03月05日 13:07:52
最新版:2006年03月05日 13:07:52
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Comments:
要するに、所詮人間が考える事なんて
たかが知れてる。
知ったかぶりして余計な事
しゃべるな。・・・・と、いう事なのでしょうか・・
俺は馬鹿ですが、そんな風に聞こえました。
すんません。つまらないコメントで・・
投稿: たいが | 2006-03-05 13:55:47 (JST)
コメントありがとうございます。
二つの考え方ができると思います。
「不安に陥れてしまったのだから、言うべきではなかったし、これから先は言わないように注意しよう。」
「不安に陥れてしまったのは運が悪かったからで、次の機会には「正しい認識」としてもなりたっているはずだ。」
後者のほうがやや乱暴に聞こえるかもしれませんが、後者のほうが判断としては健全でしょう。でも、前者にも一理あります。
「嘘」や「物語」(聖書的な言葉でいえば「たとえ」でしょうか)として話すのであれば、それが「本当のこと」であったとしても気軽に話し、判断を相手側にあずけるのが、「正しい方法」だと私は思います。
「真実」または「ニュース」として話すのであれば、それが「嘘のこと」であれ「本当のこと」であれ、まず自分がしっかり判断してその責任は負うつもりでいるのが、「正しい覚悟」だと思います。
では安全に「物語」だけ話していれば良いのか。私はそれを否定しません。しかし、残念ながらそのような人が社会から信頼を得るのは難しいでしょう。
私達は日々行動しています。そこにはどんな形であれ認識も伴っています。「言動」もまた行動の一部とするなら、「真実」を述べることも行動です。
「正しい認識」を追及していては行動も言動できない、だからそんなものは脇に置いておけばいい……というのは、多くの人にとって「正しい認識」だと思います。
これが私なりの答えです。答えになったでしょうか?
ともあれコメントをいただけてとてもうれしかったです。
「馬鹿」というところを否定すべきなのでしょうが、少なくとも私が「馬鹿」であるのは確実なので他人がそうなのかどうかは判断できません。
ただ、私も「馬鹿」なりにいろいろ考えております。もし何かお気付きの点があれば、またコメントしていただければと思います。
投稿: JRF | 2006-03-05 15:10:58 (JST)
Links:
宗教と動機付け:神は至善か、暴君か: http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_8.html
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